旅立ちの前に


 その日も月影げつえいは、琵琶を弾いてきた。弟妹たちを、聴衆にして。

 彼の調べは、緩急を繰り返し、音に鮮やかな彩りをつけていく。

 こうして、いつものように曲の最後まで丁寧に弾き終えた月影は、静かに弦から指を離した。

 二人の弟妹は、これもまたいつものように、余韻が消えてしまうまで兄の演奏を楽しむと。彼らは兄に、大きな拍手を送った。

 しかし。

 彼の妹である月華げっかは、あることを見逃さなかった。彼女は、演奏者から兄の顔に戻った月影の元に駆け寄ると、彼にある質問をした。


「ねえ、月影にいさま」


「うん? どうしたんだい、月華」


 月影は愛器の片付けをしながら、妹の言葉に応える。


「にいさまはなにか、なやんでいませんか?」


「おい月華。おまえ、兄上に、何てことをお聞きしたんだよ」


 すかさず、月華を兄を巡る好敵手だと思っている竣影しゅんえいが、彼女を非難する。竣影は、まるで、有り得ないものを見るかの如き、厳しい目線を月華に向けた。


「で、でも…………、いつもはなさらないことを、なさっていたのだもの」


 月華が、幼子らしく、ぷーと、両頬を膨らます。

 だってぇ…………、そう思ったんだもの。竣影にいさまの、いじわる!


「月華。君はなんで、そんなことを聞くのかい?」


 内心、怯みながらも不思議に思った月影は、月華に穏やかに問いかける。

 すると。

 そんな月影に、月華は、さらっとこう言ったのである。


「音が、一つ、二つ、外れていましたわ」


 す、鋭いな、と月影は思ってしまった。今日も“生々流転せいせいるてん”並みの難曲を弾いたのに、まさか気がつくとは。

 子どもは、見ていなさそうで、結構しっかり見ていたりするものだ。すっかり忘れていた。月影は、反省した。この妹、本当に侮れない。

 特に月華は、まだ六つなのに、気転がよく利く。きっと、彼女は大きくなればなるほど、その聡明さも淑やかさもさらに磨きかかってくるであろう。

 月影は、月華が自分を慕ってくれていて、良かったとつくづく思った。敵にしたら、怖すぎる。幼いからって侮っていると、こっちが足元をすくわれそうだ。

 それに、そもそも月影は、噓をつくのが苦手だ。だから、彼は苦笑いをしながらも正直に、自分が悩んでいることを告げた。


「月華。さすがだね。君の言う通りだ。確かに、僕は今、悩んでいることがある。だから、いつも通りの演奏ができなかった。それは認めるよ」


「それなら……」


「でも大丈夫。大したことではないから。あ、あそこに面白そうな書があるね。早速見てみようか」


 妹の言葉に無理やり重ねるように話し、彼女の質問を遮った月影。

 月影にいさま、へんなの。

 月華はそう思った。兄は、あきらかに無理やり会話を終わらせようとしている。それは、聡い月華に疑問を抱かせるのに十分すぎるほど、不自然な行いであった。

 なんだか、兄に上手いことはぐらかされた気がした月華と竣影であったが、釈然としない顔を見合わせると、取りあえず少し離れたところに置かれた卓子たくしに向かった兄の背中を追った。


「どれどれ………………‟四神しじん宗家の成り立ちについて”、か」


 月影は、卓子の上に置かれていた書物の中から、何となく手に取ってみた物の表紙に書かれた題名を読み上げた。


「そうです。昨日、史書ししょせんせいから教えていただきました。よくよく覚えるように、と」


 竣影が、元気よく答える。

 それは、四神宗家およびその一族の者として生まれた子どもが習うべき必須の話であった。同時に、四神宗家と黄王家との縁を語る、とても大切な話でもある。

 月影自身、竣影くらいの歳か少し下の年齢だった頃に、一生懸命覚えた話でもあった。懐かしい。


「そうだ。折角だから、僕が読んであげようか」


 月影は、ぺらぺらと手に持つ書物をめくりながら、二人の弟妹に、そんな提案をした。

 何だか久しぶりに、読んでみたくなったのだ。


「本当ですか?!」


「読んで、読んで、にいさま!」


 予想通り、竣影と月華は嬉しそうな声を上げる。

 そんな二人の可愛らしい仕草に微笑みながらも、月影は卓子の側にある椅子に腰掛けた。

 竣影と月華も、兄と向かい合うように、卓子を挟んだところにある席にそれぞれ着く。

 二人が椅子に座ったことを確認すると。


「じゃあ、始めようか」


 そう言った月影は、書の表紙をそっと開いたのである。

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