第26話 おつかいを終えた夜

 アレッタは泣き疲れて、そのままガゼボのベンチで眠ってしまっていたようだ。

 あれだけ大声で泣いていたのだから疲れもするだろう。

 おかげで頭がぼんやりとして、目も重い。


 体を動かすと、ブランケットがかけられている。さらにその上でエンが寝ていたため、エンを包むようにブランケットをよけて、アレッタは起き上がった。


 横を見上げると、バラ柄の仮面をつけた男がいる。


 ───エイビスだ。


 満開のバラが仮面に映り、華やかな仮面になっている。

 それをぼんやりと見上げていると、バラがこちらを向いた。


「起きたのかい……?」


 その声はとても優しい声だ。

 昼間怒ったときの声ではない。

 アレッタはもぞもぞと座り直し、言葉に迷いながら、ゆっくりと頭を下げた。


「エイビス、昼間、……すまなかった」


「謝らないでよ。僕も言いすぎたし」


「いや、そんなことない……」


 ガス灯がぼうと音を立てる。

 風が吹いたのだ。

 その音に驚きながらも妖精が近づいたり離れたり、まるで光源に集まる虫のよう。

 だが煌めく羽が幻想的な雰囲気を醸し出し、まるでガゼボが空の中に浮かんでいるようだ。


「エイビス、いつからいたんだ?」


「君が寝こけてからかな……」


「ずっと、いたのか……?」


「……うん。僕も泣きたい気分だったから」


「そう」


 夜露に濡れた花はザラメをまぶしたように月光を反射し、真紅の色を際立たせている。

 妖精たちはその露を舐め、喜ぶように飛び回る。疲れを知らない彼らは、ついたり離れたり、飛んだりとまったりと忙しそうだ。


 それを2人で眺めていると、


「ねぇ、」


 エイビスの声は小さい。

 呼んだ声だと気づくのに、少し時間がかかった。

 アレッタは数拍の間をおいて、ゆっくりと振り返った。


「ねぇ、アレッタ、

 君は、死ぬの、怖くないの……?」


 その言葉に、アレッタの体が縛りあげられる。

 胃が縮み、喉が締まる。



 あのとき、怖くなかっただけ……

 ……今は、…違う……



 言葉を避けるように俯いたアレッタに、エイビスは続けた。


「……僕はね、逃げたんだ。

 少年を盾にして、逃げた。

 戦い方も知っていたけど、戦わなかった。

 ………だって、死にたくなかったから」


 俯いた仮面が起き上がった。

 どこを見ているかはわからないが、正面に顔を正すと、アレッタを見ずに言葉をつなげた。



「ねぇ、アレッタはどうして戦えるの……?

 そんな小さな体で、もろくてとても弱いのに、なんで一歩を踏み出せるの?

 僕は怖くて怖くて、死ぬと思ったら無我夢中で逃げたのに……」



 アレッタの視界のそばにはエイビスの手がある。

 白手袋の手は、ぎちりと握られ、小刻みに揺れる拳は声音とは裏腹に強い思いが込められている。


 アレッタは息を一度大きく吐いた。

 心のざわめきを整えるためだ。

 もう一度息を吸い、吐いてから、アレッタは声を出した。



「……エイビスは、そのとき、生きていたんだ」



 アレッタはエイビスを見つめる。

 彼もその視線に気づき、アレッタを見やる。



「僕が、生きてた……?」



 エイビスはアレッタの言葉を繰り返している。

 アレッタの言葉をエイビスは飲み込むと、再び俯いた。



「生きていたなら、……尚更、だ。

 だって彼は、僕を絶望の目で見たんだ………怯え、悲しみ、憎しみさえ滲ませていた…

 ……僕は未だに後悔してる……どうして腕を一本もがれても戦わなかったんだって……

 君みたいに、どうして戦わなかったんだって……!」



 ふっと笑った気がした。

 自嘲したのだ。


 なのに、仮面は泣いている。



 露が伝い、泣いている───



 アレッタは思わずエイビスを抱きしめた。

 小さい体で、一生懸命、エイビスを抱きしめた。

 アレッタが抱えられているようにも見えるが、アレッタは精一杯エイビスを抱きしめたつもりだ。



「エイビスだって戦ったんだっ!

 自分と戦ったんだ……

 きっと、後悔も間違いも、全部生きているから刻まれるんだ。

 ……生きてるって、そういうこと、なんだろ……?」



 見上げたアレッタの目は再び濡れている。

 彼の苦しみがわかるからだ。

 痛いほど、そう、胸が痛い。

 だがそれは、生きようとして足掻いて、傷ついた心が疼く痛みだ。


 エイビスは胸元の服を握りしめた。



 後悔に苛まれる日々も、戦いだったのか───



「……そうかも、しれない…」


 エイビスは抱きついたアレッタを優しく持ち上げ、自身の胸元へと抱き直した。

 エイビスの顎がアレッタの頭に触れているのがわかる。

 薄くも硬い胸板がアレッタの鼻に当たり、あまり居心地がよくないため上を見たいのだが、優しく撫でる彼の手が上を向くのを許してくれない。


「……アレッタ、今だけ、こうしててくれないかな」


 仮面越しの声ではない。

 彼は仮面を外したのだ。


「わかった」


 そう言ったアレッタの額に、そっと唇が落ちてくる。


「……ありがとう、アレッタ。いい子だね……」


 語尾の震えるエイビスの声に、アレッタはそのまま彼の胸に懐いておいた。

 頬を摺り寄せ、自分の小さい手で彼の胸板をあやすように優しく叩く。

 だって彼も、泣きたい気分なのだろうから───

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