第23話 初めてのおつかい 【山小屋編4】

 アレッタの体は絶望に囚われた───


 血液が下がり、指先が冷え、内臓がぎゅっとしまる。



 ……どうやって逃げれば……

 逃げなければ……

 …逃げねば………



 アレッタの頭の中はそれだけが駆け巡る。

 だが逃げたいのに、逃げられない。

 掴んでいる腕はガチりとはまり、身動きがとれないのだ。



 もう、策が………ない………

 だが、それでも……



 ……彼らだけでも、救わなければ………!!!



 アレッタは短い腕を必死に伸ばす。


「…シ…ルファ……っ!」


 体を掴む腕を必死に引っ掻くが、緩む気配は全くなく、むしろきつくなるほどだ。


「ったく、せっかく上玉捕まえたのに全部逃しちゃ、マジで旦那に殺されるぜ……

 大の男が、なに晒してんだよ。つか、ひでぇ有様じゃねぇか……」


 そうブツブツと言いながら、新たに現れた男は乱暴に少年を床に転がした。

 暴れるシルファを持ったまま、吊り下げられたアレッタの髪を掴み頭を持ち上げ、まじまじと覗き込んだ。


「へぇ……マジで金目きんめなんだぁ」


 そう言った男に、アレッタは唾を吐きかけた。

 男はニヤっと笑った。

 途端、髪の毛だけでアレッタを掴み上げると、力いっぱい壁へと叩きつける。

 濁った声と鈍い音が再び響き、アレッタは壁を伝うように肩からずり落ちた。


「……ったく、大人しくしてろよ、ガキがよぉっ!」


 指の1本も動かせない。

 耳鳴りが激しく響き、シルファの声だろうか、かすかな声に、なんとか瞼を持ち上げた。

 アレッタは白く濁り始めた視界と意識を無理やり奮い立たせる。



 ……なぜなら、約束を、してしまったから───



 アレッタは痛みにまみれた体を無理やり持ち上げ、壁を使って立ち上がろうと踏ん張った。

 小さな背を壁に当て、体を起き上がらせようと手をついた。

 だが、足に力が入らない。


「……まだやる気かよ、このガキ……」


 呆れと薄気味悪さが混じった声だ。

 アレッタはその声を睨み、


「私は……絶対、生きて……帰る、んだっ!」


 声とともに無理やり立ち上がったアレッタに、男がもう一発と腕を振り上げた。

 だが、その腕が降りてこない。

 男が腕を伝って見た先には、白手をはめた大きな手がある。


「………へ?」


 気の抜けた男の声に誘われて、ぬるりと現れた鉄仮面から声がする。


「ねぇ、僕のお客に何するの?」


 途端、掴んだ男の手首が握り潰された。


「ぎ、がぁぁあぁ、いでぇぇぇ!!!!」


 男はシルファを投げ落とし、手首を抑え後ずさる。

 エイビスは赤く濡れた手を見て、汚らしい泥でも払うように手を払った。

 血がびちゃりと壁を走っていく。



 ───恐怖が、歩いてくる



 男にはそう見えていた。

 一歩一歩を踏みしめる革靴が、命の時間を示す針のようだ。

 刻々と迫る、死への時刻。

 男の足が震えて立てやしない。腰が砕け、膝が笑い、男の体を全身で震わせる恐怖。

 痛みすら感じられないほどだが、抑える手首からはちぎれたホースが水漏れするように、だらだらと、だが鼓動に合わせて血が吹き出ている。


「あまり気は晴れないけど、仕方がないよね」


 赤く濡れた白手が迫る。

 畏れの塊に男は叫んだ。


「ま、待ってくだせぇ……!!! お、俺は雇われ」

「うん、知ってる。ネイビーズから聞いた」


 後ろに視線を投げるような仕草があり、つられて見えた先には雇い主のネイビーズがいる。

 息子は腕がもがれ、息も荒い。雇い主であるネイビーズは耳が削がれ、指もない。目も1つくり抜かれている。

 それでも気絶できないのは魔族だからだ。


「あのさ、それと、これは、関係ないよね?」


 これと指した場所は、アレッタだ。

 雇われていたにしても、アレッタを殴った理由にはならない。

 エイビスは、叫び怯え、もがく男の額に白手をかざした。

 そうとしか見えなかった。


 だが、頭を握りつぶしていた。


 吹き上がる血、ぼろりと落ちた目玉、散らされた脳漿……

 細かな痙攣をしながら、舌をでろりと打ちつけ、床に崩れた男を踏んで、エイビスは歩く。


 それは、アレッタの元へだ。


 ぬっとアレッタに顔を寄せたエイビスの仮面は、血が滴り、白い欠片がまとわりついている。

 そこに映り込むアレッタは、まるで血濡れのようだ。

 2滴、床に血が落ちたあと、アレッタの頬が叩かれた。


「アレッタ、君、死ぬよ」


 ぐっと迫ったエイビスの顔に浮かぶアレッタの顔は、体は、満身創痍そのものだ。


「フィアがいなきゃ、とっくに死んでるよ」


 エイビスの言う通りだ。

 私は、死んでる……


「ねえ、なんでこんなことするの? なんで待てなかったの」


 エイビスの顔が見えない分、淡々とした声に聞こえるが、声音は低く、これは怒りだ。

 アレッタは唇を噛み、手を握る。


「だが……」


「だが、なに? 君は小さい小さい女の子だ」


「……違うっ!」


「なにが違うんだ」


 アレッタは叫んだ。


「私は戦士だっ!!」


 アレッタは弱った体で拳を握り、


「戦士であれば、戦わなければならないときがあるっ!

 戦わずして、何が戦士だ!!!」


 血のついた唾を飛ばし、アレッタは叫んだ。

 そして、彼女の顔がぐしゃりと歪む。


「………だって……助けたかったんだ……

 あの子たちを、……どうしても……助けたかったんだっ!!!!」


 彼女の頬に大粒の涙が伝っていく。

 無理だとわかっていても、どうしても助けたかった。

 助けなきゃと思ってしまった。

 自分が、神の左手だから。



 神の左手は、決して屈してはならない。


 そう、学んだから───

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