第18話 初めてのおつかい 【子猫編3】

 アレッタは改めてエンと名付けたその子に鼻を近づけた。

 が、ただただ獣臭い。

 これがかぐわしい匂いなのだろうか……


「まぁ、アレッタちゃんに匂いはわからないわね。ネージュならわかるかしら」


 ネージュが鼻を近づけると、驚いたように顔を上げた。


「昨日食べたケーキの、……あの、イチゴのような甘い香り……」


「まぁ、これがブロディコットの魔力であり、血液の香りね」


 ずっと嗅いでられる、そう言いながらアレッタから毛玉を取り上げ鼻を近づけているが、あまりにしつこかったためか、小さな爪がネージュの鼻先に伸びた。


「いたっ」


 思わず投げ飛ばしそうになるのを堪え、アレッタに返すと、すかさず魔女が塗り薬を鼻先に塗り込んでいく。

 涙目のネージュにアレッタは笑い、


「魔女、エンと少し遊んできてもいいか?」


「まぁ、その子の名前?」


「そうだ。エンと鳴くから、エン。可愛いだろ?」


 言うと、毛玉はィエンと鳴く。


「遊ぶのなら、ここの庭からは出ないようにね」


 アレッタが名前を呼ぶと、エンは小さい脚を一生懸命振り回してついていく。

 小さな体を転がす勢いで走る姿は、健気でとても可愛らしい。

 草の中をふたりで転がり、アレッタも幼い体で一生懸命にエンの面倒を見ていると思うと、それも微笑ましく見えてくるものだ。


 だが、彼女は年齢三桁後半の中堅天使だ。


「前から可愛かったけど、小さくなるだけでこれほど愛らしさが加わるものなのね……」


 ネージュは改めてアレッタの魅力を確認し、近くにあった切り株へと腰を下ろした。

 同じくとなりの切り株に腰をおろした魔女は、手をひと振りし、ティーポットとカップを取り出す。

 熱々のお茶を注ぐ魔女からお茶をもらいながら、


「魔女の手は四次元ポケット?」


「まぁ、そんなところかしら」


 渡されたカップからは湯気が高く昇り、爽やかな香りが漂ってくる。

 アレッタのはしゃぐ姿をふたりで遠目に眺めながら、ネージュはゆっくりお茶をすすった。

 口の中いっぱいにハーブの香りが充満し、気持ちが和らいでいく。


「……アレッタがあんなにはしゃぐの初めて見るかも…」


 リラックスした体から不意に声が漏れた。


「まぁ、そうなの?」


 魔女の驚いた声にネージュも驚く。

 あんなに長く天界で過ごしていたのに、楽しそうなアレッタの姿を見たことがなかったのだ。


「ええ。あの子、ずっと戦ってばっかり……私が選んでからずっとよ? 体が千切れても私の力で元に戻るし、だいたい痛みもないしで、本当に無鉄砲な戦いばっかりで……あ、ねぇ魔女、来た時のあれはなに?」


「まぁ、なんのことかしら?」


「とぼけないでよ。玄関先の、あの粘っこい空気のことよ」


 ネージュが苛つきながら言葉を返すと、魔女はにっこりと微笑んだ。


「まぁ、あなたがアレッタちゃんのこと大好きなのがすぐわかったから、からかっただけよ」


「意地悪な魔女」


 アレッタとエンは楽しそうだ。軽やかな笑い声を転がして走り回っている。

 他の子供たちは遊び疲れたのか木陰で休んでいるが、アレッタとエンだけは疲れを知らないようだ。

 それを見つめるネージュの目が揺れる。落ち着きのない目だ。


「まぁ、ネージュ、あなた何をピリピリしてるの?」


「………当たり前じゃない! 昨日はオークに襲われたのよ? 周りを警戒するのはおかしいことじゃないわ」


「まぁ、そういうことなら、そうしとくわ」


 唐突に馬の嘶きが響いた。

 だが地面を蹴る音は聞こえない。


 視界をぐるりと回して見つけた場所は、アレッタたちの真上だ。

 真上に浮かんだ馬。


 馬が浮かんでいる……!


 そう認識したときには、馬にまたがったヒトが、大きなタモでアレッタをすくい上げ、麻袋に詰め、ひとしきり騒ぐエンもまた同じようにすくって袋に詰めこんだ。


 この間、ものの4秒───


 あまりに手慣れた動きに呆気に取られるが、すぐさまネージュは地面を蹴った。

 踏み込んだ瞬間、距離を一気に詰めるが、向こうもやはり手練れ。

 すぐに馬の綱を引き、空へと駆け上がっていく。


 だが、それを追いかけるように土が段状に伸び上がった。

 魔女の力だ。

 激しい音を鳴らしながらいびつに盛り上がる土の山に、ネージュは器用に飛び移りながら距離を詰めていく。


 そして、飛んだ。


 だが袋に指がかすっただけで、掴めない。

 すがるように空をもがくが、手は届かないままネージュの体は落ちていく。


「アリーっ!!!!!!」


 ネージュの声は虚しく森にこだました。

 落ちるように地面に着地し、すぐに走り出そうとするネージュの肩を魔女が掴んだ。

 ネージュは手で払い、「離してよっ」叫ぶ彼女の肩を、魔女は再び掴む。その手は肩を握りつぶすほどに強い。


「まぁ、闇雲に走っても意味がないわ。あなたはここの土地勘はないんだから。今、エイビスたちに遣いを送ったからすぐに来るはずよ」


「そんなの待ってたらアリーが」


 肩にさらに痛みが走る。


「……まぁ、アレッタちゃんがどうなるのかしら……?」


 痛みの中、魔女に言われて改めて恐怖を覚えた。



 アレッタが殺されるかもしれない………!



 焦る気持ちに比例して、肩の痛みが強くなっていく。

 痛みが強くなるほど、怒りに沸いた頭が冷静になっていくのがわかる。

 飛んで行った方角が北なだけでそれ以上の情報がない以上、闇雲に動いてもネージュ自身が森に迷うことになる。

 魔女の言う通り、ここがどこかも何もわからないのだ。


 肩の痛みがリアルに伝えてくる。

 ただの精霊の力ではここでは勝てない。



 だが、今すぐに助けに行きたい……!!!!



 戸惑い揺れるネージュを魔女が優しく抱きしめた。


「まぁ、大丈夫よ。アレッタちゃんはあなたが助けるのだから。少しだけ待ってちょうだい。役に立つふたりよ」


 魔女から芳しいお香の匂いがする。

 それは魔女に似合わない太陽の匂いに似ていて、なぜか安心する匂いだ。

 ネージュはその香りを吸い込み、ゆっくりと息を整えていく。


「ありがと、魔女」


「まぁ、精霊に感謝されるなんて。さ、エイビスたちが到着したわ」


 馬の嘶きとともに到着したふたりだが、冷静を装いながらも焦りが滲んでいる。


「ネージュ、走りながら説明できるかな?」


 エイビスの声に「もちろんよ」返事を返したネージュに、フィアが腕を伸ばした。


「乗れ、ネージュ!」


 ネージュは走り出したフィアの腕に掴まる。

 彼は馬の勢いに乗せてネージュの体をまわすと、ネージュはその勢いに乗り、器用に彼の後ろへとまたがった。


 走り出した馬は北へと向かっている。

 濃い霧が彼らの目を欺くかのように広がっていく。

 だが戸惑うことなく彼らの馬は、その霧の中に踏み込んで行った。

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