許されざる願い

朔夜

第1話

 ぽちゃん。ぺたんこのサンダルがマンホール程の大きさの水溜りを踏んだ。鏡のように景色を反射させるそれはサンダルを中心に円状に波打ち、歪む。踏んだ衝撃で水滴が飛んでしまって、傘で凌ぎきれずにいた雨で濡れていた足が更にびしゃびしゃになった。数秒のうちに歪んだ水溜りは元の静けさを取り戻しはしたけれど、打ち付ける雨がまた小さな波紋を作る。その中にはいつもの淡い青は存在せず、灰色で塗り潰された空が映し出されていた。サンダルの湿った感触がふやけた足の指に伝わる。纏わり付くような感覚が少しだけ不快だった。

 私を曇天の涙から守る透明な傘は本当にそこに存在しているのか分からなくなる。持ち手のにべもない白と骨組みの銀が傘の形を作るから傘の形をしていると分かるけれど、実際にビニールの独特の質感に手が触れるまで、そこに『ある』とは思えなかった。

 神様もきっとおんなじだ。どれだけいると信じても自分の目で確かめなければ、いないのと同じ。御神体がどんな形をしていてもそれが神様本人かと聞かれれば誰も答えることはできないし、答えられる人がいるならそう思い込んでいるだけに過ぎない。だから私は信じない。神様をこの目で見るまでは。

――そう、思っていた。

「雨の中神様探しか? 物好きじゃのう」

 白い着物を纏い、赤い和傘を差して現れた長い銀髪を後ろで括った男。七三分けにした前髪は長く、ふんわりとウェーブを描く。見た目の年齢は二十代前半といったところだろうか。道のど真ん中に突如として現れた男は、翡翠の瞳を細めて口元に弧を描いた。

「……誰」

「お主が必死に探していた、神様、というやつじゃが」

 必死に、というわけではなかったが、探していたのは事実だった。事実だったがこの男が神様だという証拠はどこにもない。自称神様の可能性は十分あり得る。エセ神様に高い壺やら数珠やらを買わされたのではたまったものじゃないので、警戒心は解かずに男の顔を見る。

「信じてない顔じゃのう」

「当たり前でしょ」

 この目で見るまでは、というのは、その姿を捉えるまでは、ということでもあったが、神様でしか成し得ないようなことを目撃したら、という意味でもある。胡散臭い文句を言い、格好をすることなら誰でもできるし、それを簡単に信じるほど馬鹿じゃない。

 ふと視線を男の足元にずらすと先が丸みを帯びた下駄を履いていて、綺麗な爪先が見えていた。しかし、私が気になったのはそこではなかった。白地の綺麗な着物の裾が全く汚れていない。雨の中、傘をさしているとはいえ、外で歩いていれば足元に少しは泥や葉の汚れがつく。けれどその裾は下ろしたてのような美しさだった。

「汚れてないのがそんなに気になるかや?」

「……別に」

 くすくすと笑う男は何故か楽しそうで、それが遊ばれているように思えてやけに癇に障った。何がそんなに楽しいのか分からないし、自分が騙されたわけでもないのに彼の掌で踊らされている気分だ。そんな私を余所に、男が太ももを傘を持っていない方の手でぽんっと叩いて、何かを思いついた。

「そうじゃ、これで信じてもらえるかのう」

 男がゆっくりと重そうな傘を閉じる。本来なら空から落ちてくる雫が男の体に当たって弾けたり、吸い込まれたりするはずなのに、どういうわけか雫は男の体を上から通り過ぎて真っ直ぐ地面に落ちた。

「……え?」

 男の体が透けているようには見えない。さっきは確かに傘を差していたし、それは雨を遮っていた。実体は、あるのだろうけれど、雨が依然として何の障害もなく地面に打ち付けられているのを見れば、透明人間になったようにしか思えない。

「なんの、マジック?」

「マジック? それはなんのことかわからんのう」

「なんの手品だって言ってんのよ」

 話し方が見た目と反してお爺さんっぽいし、言い方を変えれば伝わるかと思って言ってみたが、目の前の男は傘を持っていない方の手を口元に当て首を傾げるだけ。伝わっていないことはよく分かった。

 しかし伝わっていないなりに、それが紛い物だと思っていることは理解したようで。

「つまりは信用していないということじゃな? では、これではどうじゃ」

 男は地面に、かんっと音を立てて傘の先を打ち付けると、その瞬間にその場からいなくなった。どこに行ったのか辺りを見渡してみても、閑静な住宅が続くばかりでその姿はどこにも見当たらない。人が消える。そんなことがあり得るのだろうか。けれど実際、目の前で起きたのはそれだった。困惑する頭を雨の音でなんとか落ち着かせようとするが、雨の音も不協和音に聞こえて結局落ち着くことはなかった。

 ビニール傘に雨が当たる感触が傘を持つ手に伝わる。不規則なリズムで伝わる振動と音。そこに、それとは違う、少し強めのリズムが伝わってきた。気になって顎を上げて上を見れば、ビニール傘の先に下駄の裏が見えた。

「ちょ、なんでそんなとこに乗ってんのよ!」

 自称神様が私が差している傘の上に乗っていた。一瞬状況がうまく飲み込めなかったが、勢いよく傘を下に振り降ろすと、おっと、と言いながら彼はふんわりと地に降り立った。かつん、と下駄の音が鳴る。さっきの振動は持っていた和傘で傘を突いたものらしかった。

「これで信じてもらえたかのう」

「へ、変な特技かなんかなの⁉︎」

「そんな器用なこと、わしはできん」

 傘に乗られた時ですら、重さは感じなかった。人には出来るはずのないことを彼は平然とやってのける。もはや、神様かどうか、というよりは、人ではない、という認識の方が強くなっていた。それでも現実的な思考をする私の脳は無理矢理にでもそんな夢物語を否定したいようで、思わずそんな言葉が出た。頭の片隅で起こってることを他人事のように見ている私が、自分、パニクってるなぁと、やはり他人事のように考えている。

 私の信じてしまいそうな頭と、信じたくない頭の葛藤を目の前の男は察したらしく、ため息をついて最終手段を口にした。

「仕方ないのう。わしは雨が好きなんじゃが……まあ、これで信じるじゃろ」

 銀髪男が傘で地面を叩いた。今度は二回。何が起きるのだろう、と男を注意してみていると、雨で悪かった視界がどんどんクリアになっていった。邪魔がなくなって男の輪郭がはっきりと目に写る。つまり、雨が止んだ。雨による傘から伝わる振動は鳴りを潜め、代わりに厚い雲で覆われて薄暗かった空から、一筋の光が差す。その光が当たった彼の銀髪は艶やかで、その光景は神秘的だった。この世には存在していないのではないのかと、思うほどに。

「雨、やんだんだけど」

「どうじゃ、信じたかの?」

 天気は人間が操れない自然だ。それを目の前で操られてしまったのだから、疑うだけ無駄だった。彼が傘で地面を叩いたタイミングで勝手に雨が止むなんて、そんなことあるわけがないのだから。

 けれど、だからなんなのだ。私は神様を無意識に探していたのかもしれない。だからってその存在を信じたとしても私から神様に頼むことは、何もないはずだ。

「信じたけど、信じさせて何がしたいの?」

 傘を畳んで下に向ければ落ちきれていない雫が傘の先に集まって地面に流れていく。既に色が変わっているアスファルトは、さっきまでちゃんと雨が降っていたことを物語っていた。

「わしにお主の願いを叶えさせてくれんかのう?」

 男は一歩前に進んで手を差し出したが、その手に私が見たのは見え隠れした絶望的な叶えたい願いで。それを振り払うようにその手を叩いてこう言った。

「叶えたい願いなんてないから」

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