大前リトルガール

小川真里「フェンシング少女」スタンプ

大前リトルガール

「昔、『大前リトルガール』って歌があってさ」

 と、幼馴染みの彼は言った。

「大前のことさ、……ずっと、小さいころから好きだった」

 私のことを『大前』と呼ぶ彼を、私もずっと好きだった。

『お前』って呼ばれているみたいで――ずっと好きだった。

「俺は行くよ――」

 元気でいてね。

 全ての輪郭が曖昧な、どこまでもどこまでも灰色の空――その空に、白く濁った息が溶けていく。足下には、深く黒い濁った海――白く光る防波堤は、じりじりと二人のお尻から熱を奪っていく。

 彼はすっと立ち上がる。

 出航時間が、迫っていた。





 彼と出会ったのは、高校二年の、確かあれは夏だった。

 遠くで蝉の鳴く声が、けれどどこにも反響する場所などないのに包み込むように聞こえてくる――海と山が、隣接する町。

 片側一車線の一本の道路が、その境目。

 ――私が堤防の上をてくてく歩いていると、声をかけてくる男子がいた。

 そのときは知らなかったけれど、私と彼は同じ高校の、同じ学年だった。

「いやいや、小学生から一緒だよ」

「……は?」

 知らん。

「ん、ああ、そっか。まあいいや。俺本城ね」

「オレホンジョー?」

 区切りがわからず意味が取れなかった。

「俺の名前。本城シマイ

「姉妹?」

「あー、ややこしいから苗字だけでよかったなー。ごめん、『終』って書いて『シマイ』」

「……そんな変な名前の人間、会ってたら絶対覚えてるけどな」

「おーい、目の前で人の名前『変』って言ったね?」

 自分でもそう思うけどさ、と彼は笑顔で言う――イケメンというよりは、なんというか、童顔だった。犬歯が八重歯になっていて、それでも矯正する気はないようだ。

「あっ!」

「思い出した?」

「小学校の何年かで、クラス全員をぼこぼこにして転校になった……?」

「おおー。それ」

「話しかけないでください」

「待って! 脱兎のごとく逃げないで!」

「殴らないでください!」

「殴らないよ!」

 速攻で追いついてきて逃げると逆に刺激を与えてしまうのではないかと思い私は立ち止まる。というか、徒手空拳の相手を武装解除するにはどうすればいいのだろうか。

「ほんとになにもしません。ほんとうです」

「ほんとうに?」

「ほんとうです」

「……」

 ……埒があかないので、写真付き身分証明書であるパスポートとついでに生徒手帳を写真で撮影し、何かあればインターネット上に公開するということで話が落ち着いたのであった。

「……ていうかなんでいるの?」

 私が居た場所は、勿論私の通学路ではあるのだけれど、今日まで同じ高校の他の人間に出会ったことは、一度もなかった。登校中も下校中も、である。

「うーん、帰宅路を変えてみたら、たまたま君の背中が見えたから、話しかけてみた、とか?」

「とか? じゃねーよ」

「んー……」

「つけてきたのか?」

「つけてきた、ってよりは、学校から出るところで君を見かけて、声をかけようか迷っているうちにここまで来ちゃった、って感じかな?」

「ここまで十五分やぞ。悩みすぎやろ」

 謎の方言が出た。

「むしろクラスが同じになった春から悩んでいた感ある」

「ストーカーかよ」

 取り敢えず渾身の右ストレートを繰り出すが、ギリギリで躱される。

「顔はやめて!」

「イケメン俳優か」

 左ジャブ左ジャブも躱される。

「母さんに殺される!」

「恐〝母〟家か!」

「君が殺される!」

「マザコンか!」

「それを言うなら親バカだな」

 ぱしいっ、と彼は二発目の右ストレートを左の掌で受け止める。

「いいパンチ、だったぜ……」

「盛大に殴り合いの喧嘩した後の友情、みたいな言い方すんな」

 ……けれど結局、そんな感じで私たちは「再会」して、それが友情の始まりだった。





「日本語の一人称を指す代名詞はめちゃくちゃ種類あるのに、日本人って二人称を指すそれって全然使わないよね。外国語だとだいたい二回目以降はだいたい『君』か『あなた』って使うのに」

「まあね。『○○のそれ』っていう言い方も日本語では殆どしねーよ」

 と私が言うと、「たしかに……便利なのに」と彼は真剣そうにぼやく。

 そんなことを彼は言うくせに、英語は壊滅的に出来損なっていた。文法用語は覚えているのに肝心の「それがどんな用法だったか」を覚えていなかったりとか、所詮言語というものは単語をどれだけ覚えているかだ、というのに小学校高学年レヴェルの単語さえわからなかったりとか。

 そういうわけで、彼は英語の成績が壊滅的なのであった――そして英語が得意な私に、

『英語、教えてくれないかな?』

 彼はこうして、二学期の中間――テスト週間の放課後、英語を教授されているのだった。

 一学期の中間、期末試験は何の弁明もできないほどの赤点。中間試験のときは彼のお母さんは何も言わなかったらしいけれど、期末試験では流石に息子溺愛の彼女も、

『卒業したくないの? したくないならいいけど』

 と言ったらしい――しかもめちゃくちゃ優しい声で。

『すみませんでした! 卒業したいです!!』

 彼は夕食中だったのに直立後に九十度に体を折り曲げて、そう答えたのだそうだ。

 彼のその安西先生を目の前にしたかのような声は、彼の住むマンションのフロア中に響きわたったのだそうな。

「この前聞いたこのエピソード、オチがないんだけど」

「オチ? その『ワンフロア』って全部うち」

「は? 金持ちか?」

 私の瞳からハイライトが消えた。

「……母さん、たぶん俺が留年したら学校を辞めさせて、ずっと家に置いときたいんだろうな……」

「怖っ」

 彼の瞳からハイライトが消えた。

「マ……母さんは」

「ママ?」

「……家で母さんは『ママ』でしか答えてくれないんだよ」

「怖っ」

 こういうくだりにありがちな「恥ずかしいけど全力で否定」みたいなものもなく、その答えはただ淡々と、悲哀と虚脱感まじりで、吐き出す息に魂が含まれていそうなほど弱々しい。

「そういえばさ、というかだからなのか、俺、小学校、三年生からしか通ってないんだよね……」

「それもママの?」

「君がママ言うな。……そうだ。若い女の先生がどうのこうのって」

「怖っ」

「で、話戻すけどさ」

「これだけ散らかった話、元に戻るの?」

 Dメールでも送らないと無理じゃね。

「まあいいけど。何の話だった?」

「日本語の一人称を指す代名詞はめちゃくちゃ種類あるのに、日本人って二人称を指すそれって全然使わないよね。外国語だとだいたい二回目以降はだいたい『君』か『あなた』って使うのに」

「あ、同じ台詞を繰り返すんだね」

「でさ、君はどう思う?」

「別に。文化的差異としか。ははーん、それで、私のことを『君』と?」

「ええ、はい、そうですね」

 ああー、真実も含まれているがそれが理由の全てではない、と。ふーん、では。

「私さ、そうやって呼ばれるの好きくないんだよねー」

「そう、それは悪かった」

「だから、名前で読んで」

 下の名前で。

「いや……それはちょっと」

「えー」

「昔さ」

「ん?」

「『大前リトルガール』って歌があってさ」

「……ん?」

 往年の名曲に、よく似ているけれど……?

「君の歌だって、思った」

「……」

「だからさ、これからは君のことは『大前』って呼ぶことにするよ」

「いや、下の名前で呼んで」

「それはちょっと」

 ……っていうか、こいつこの歌が本当にそんなセンスの欠片もないタイトルだと思っているのだろうか?

 本当に本当だとしたら、こいつの英語はもう救いようがないのではないか――今更こんなことを言っているようでは、私の素晴らしい教授は受け取られていないのではないだろうか。

 その予想はギリギリで外れたようで。

 彼は今期の英語の試験は、赤点をギリギリで逃げ切って、ママにベタ褒めされてその巨大なおっぱいで窒息しかけて救急車で運ばれたそうな――テスト返却の翌日、彼は休んで、担任がそう言ってた。





 私たちの住む町は、海と山しかない――海沿いの道路を挟んで、海と山が併存している。

 町のどこを歩いていても、どこをどう足掻いても、磯の香りが鼻孔を突き刺していく。結果諦めて、私は行く宛てもなく、三匹のイルカのモニュメントが目印の展望台を後目に、防波堤の上をぷらぷらと歩いていた。

 砂浜からは海水浴客が消え、海には台風の波を捕まえようとするサーファーたちが、赤く輝く水面に影を落としている。その反対側に目を移すと、先日まで青々としていた山の木々が、少しずつ、夕陽が染み込んでいくように少しずつ、その色を赤く衣替えしてきていた。

 どうやら季節は秋――心なしか、昨日よりも、空の青が透き通っている気がする。

「タバコ」

「あ゛?」

 反射的に変な声が出る。

 本城が知らぬ間にそこにいた。シルバーのママチャリに跨がって、どうやら学校からの帰宅途中のようだ――いや。

「タバコ」

 言いながら、堤防の先まで歩いてきていた私の横に立つ。今ひとりのサーファーがひっくり返って海中に消えた。

「なに?」

「タバコ、やっぱりやめたほうがいいと思うよ」

「わかってる」

 わかってる、そんなこと。

「吸わなきゃやってられない」

「わかってる」

 と、彼は言った。その「わかってる」は――まるで――

「俺が『わかってる』っていくら口で言っても、大前――きみにその深度は伝わらないだろうけれど」

 彼はふ、と浅い溜息を吐く。

「わかってほしい」

「……何を」

「大前――君には」

 長生きしてほしいんだってことを。

 ……私がその言葉をどうとっていいか悩んでいる一瞬の隙に。

 じゅっ、と。

 私の銜えた、火の点いているタバコを、握り潰して海に捨てた。

「おいッ! 海に吸殻捨てんじゃねーよッ! 今すぐ拾ってこい!」

 ドンッバシャアア――彼を海に突き飛ばす我。

「……君の倫理観はよくわからないよ」

 上半身だけ海から起こして――わりと深そうで、立ち泳ぎしているようだ――恨めしそうにこちらを見る彼。幸いケガもなさそう――しかも、ちゃあんと吸殻を拾っていた。

「てかなんだその一人称。英雄王か」

 言いながらこちらに戻ってくる――結構高い堤防を駆け上がるようによじ登ってくる。

「フハハハハハ金髪のことか貴様ああああ」

 登り終えた彼に渾身の右ストレートを彼の顔面に打ち込む――彼はそのパンチを左の頬でそのまま受け止めて――ごっ、という鈍い音がした――そのまま。

 私を抱き締めた。

 水浴びをするには気温はもう低く。

 抱き締めあうには体温は高すぎた。

 心音は高鳴り、ただただ顔面が熱く燃えるように熱い――びしょ濡れの服から蒸気が出そうなほど。

「ごめん」と彼は。「そういうつもりじゃなかった」

 ――どんなに諦めても。

 どんなに目を瞑って、耳を塞いで、口を噤んで、唇を嚙み締めて、握り拳を、爪痕が残るくらいに強く固めて。

 ここは現実ではないと自己暗示をかけて。

 ――目の前の現実から、どんなに目を逸らしても、私はこの地毛から、出生から、肌色から、体格から、逃れられない。

 ――今日はちょっと、クラスの男子に、髪の色をからかわれただけだ。

 本当にちょっと、これくらいなら耐えられる――ようになったと――そう思っていたけれど。

 気づくと足が出ていた。

 本城はその、クラスの男子に向けられた私のハイキックを一の腕二本で受けとめて、ぱちん、と私にウィンク――そして――

 ガンッ

 強烈な空中踵落としをその男子の頭頂部に喰らわした。

 その男子は泡を吹いて倒れた――見た感じ、正直即死してもおかしくない威力だと思ったけれど、救急搬送された先の病院で、息を吹き返した――というか無傷だった、らしい。クラスメイトから(彼に)連絡がきた。被害届とか出すんだろうか? 無傷だからええわええわで出さないのかな。わからん。

 私は鼻を啜りながら。

 ――そう。思い出したのだ。

 彼が、強烈な踵落としを繰り出したあの瞬間。

 ぜんぶ。

 つらくてつらくて、おくにしまいこんだあのころ。

 封印していた嫌な記憶と――一緒に終いこんでいた、


 救いの手ヒーローの記憶。





 思い出してしまっても、思い出したくない。

 人類は自分[たち]と異なるものに対して排他的な感情を抱く生物だ。

 日本人は、その歴史的背景からかその傾向が顕著だ――と感じる――〝表現の自由〟が認められている国だから余計に。

 そしてそれは、未成熟な子供たちなら――配慮も、遠慮も、微塵も存在しない。

 非道い言葉だった――酷い言葉だった。

 そのとき――小学校三年生のとき、私に向けられた言葉は全て忘却封印した。

 封印した――筈なのに。

 全て鮮明に思い出せるのだ。

『なんで大前だけそんな髪の色で許されてんの?』

 たぶん、前日の夜に始まったドラマが、不良系ヒロインの学園ものとかだったんだと思う――一言目は、小三の私には重すぎるが、小三のバカ――もとい何も知らない男子にとっては、素朴にしてシンプルな質問だったのかもしれない。

 今、こうして、冷静ぶって、怒りに燃えそうな頭で分析してみるとそうだったと考えられる。

「いいよ。冷静にならなくても。怒りたいときは怒ればいい」

 と、現実で胸を借りていてる目の前の本城が言う。

「ありがとう」

 回想に戻る。

『元々この色だから――』

 私の回答を食い気味に、

『えーずるくね?』

『汚い』――それは〝ずるい〟という意味の『汚い』だったのだろうけれど。

『確かに』

『大前きたねーよな』

『なんでお前冬なのにそんな黒いの?』

『あれだよ、きいたことある、パパが〝ミセノオンナ〟に手を出したとか』

 あ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~。

 目の奥で火花が散って、世界が白く燃える――

『俺がやるよ』

 いつの間にかクラスの人間に囲まれるような形になっていた私の横をすり抜けて、彼が――当時の本城終が。

 私の目の前の男子の鼻を、凶悪な右ストレートで粉砕――その男子は後ろの人間も巻き込んで後方にぶっ倒れる。向かって左隣の男子の脇腹を右の中段キックで蹴り抜いて、隣の二、三人を巻き込んで倒し、その背後の女子の眉間に飛び蹴り、器用に着地。背後に迫っていた彼を押さえ込みにきた体大きめの男子数人が、彼の鎌鼬かと思われる程の鋭い足払いで一斉に倒壊し、そこへ彼は飛翔した後に顔面を汚い上靴で踏み抜いた。

『本城ッ! お前何して――』

 彼は駆けつけた二人の教師の顔面に向かって野茂英雄並の剛速球――剛速〝上靴〟をぶつける。怯んだその隙に一人目の体育教師の股間に例の体重の乗った凶悪な右ストレートを喰らわせ、隣の担任教師の股間に膝蹴りをお見舞いした。

 そこからは、彼の独擅場どくせんじょうだった。

 ただひたすらにクラス中を気絶、或いは悶絶させ――

 クラスに立っていたのは、無傷の彼と、何もすることができなかった私だけだった。



「直後に先生たち来たけど」

 大量に駆けつけてきたけど――いつの間にか彼はいなくなっていた。

「どうやって逃げたの?」

「――企業秘密」

 何故、忘れていたのだろう――辛くて封印した思い出は、こうして今思い返してみると、淡い青春の一頁に変わり――いや、だいぶ怒りは残っているが。

「でもさ、君があれから転校してからも、誰からも二度とあんなこと言われなかったけどあれなんで?」

「あーあれね。あのときのクラスメイト全員と、俺の母さんが三者面談したんだよね」

「三者面談?!」

 どういう三者?!

「俺の母、クラスメイト、その親――場合によっては両親――で一週間学校を休みにして」

 ああー、なんか休みになった気がする。ってか何だその権力者。

「まじ? 何話すの?」

「フツーに母さんが懇々と説教したらしい」

 コエー。

「言い返す人もいるんでしょ」

「だいたい母さんの方が口が強いから」

 コエー。

「所謂〝いじめ〟の様子は全て録音されてたし、それをバラ撒くよ? っていう」

 いつの間に……。

「でもさ、なんか一人だけ楯突いた女――の母親がいたらしくってさ、って母さんが晩飯のときに雑談してたんだけど」

 なんだその晩餐。イヤだわ。

「ほわんほわんほわんほわんほわわわ~ん」

 字面にすると長いなー。



『私の娘の顔に傷がついたの! どうしてくれるの?!』

 と、その母親は言った。

『で、いくらほしいの?』

 とは、俺の母さんだ。

『えー……、一億円』

『ふーん』と母さんはおもむろに小切手を切ってその母親に渡した。

「小切手っ?! 初めてリアルで聞いたわ」と私は思った。

『あんたこの子をそれだけの価値のある人間に育てられるんだね?』

 母さんのその質問に、『あ』とか『う』とかその母親は答え、娘は終始無言だった。

『それだけの人間オンナにならなかったら差額を取りにいくけどいい?』

『わ……わかったわよ』

『おっけー。よろしくねー』

 ――って。

 と言って、彼は回想を終える。「それでさ」と彼は一つおまけに、と。

「その女子、今東京でアイドル歌手やってるぜ」

「まじ?」

「今週のMステに出るらしい」

「すげー」

 ……それだけの価値がその女子にあることを、彼の母親は見抜いたのか。その額に見合うように、母親が――いやその娘が、努力した結果なのか。

 ま、どっちでもいい――というかどうでもいい。

 少なくとも、今週のMステを私が見ないことが確定しただけだった。

 そして――全て思い出した(いくつ段階を踏んで思い出すんだ)。

 あんな――解決策がただの暴力だったことを差し引いても、多少やりすぎだったことを割算しても、一発でその男子のことを好きになってしまってもおかしくない出来事も含めて全て〝辛い思い出〟として一括りで記憶を封印してしまっていた理由ワケ

『君のこと、昔から好きだった』

 君は――と当時の本城は、二人きり(二人以外意識を失った)の教室で。

『君は、僕にとって文字通りの〝大前リトルガール〟だから』

 聞き間違いではなかった。

 得意気な顔でそんなことを言う彼に、私は『何が文字通りだ何が』とツッコむことも忘れ、ドン引き&ガッカリと緊張緩和で失神して一日寝込み、一週間後に学校が再開した頃には、全て忘れてしまっていた――よほど、当時はショックだったのだろう。

 そんなくるくるぱーなことを言う男の子を、自分が殆ど好きになりかけてしまったことに。





 思い出して良かったか悪かったかは、恐らく神さえ知らない。

 何故なら、「神が善である」という命題が真であることは、疑い得ないから。

「何の話?」

「神は善であるから〝悪〟という概念が内在しないってこと」

「ぷーん」

「理解する気がないなら人のモノローグに入ってくるな」

 神が本当に善で。

 ――「善である神が人類を創り賜うた」のであれば、「人類は善」でしかありえない筈なのに。

 何故人類は過ちを犯すのだろう。

「そして何故ほぼ同じ意味の『あやまり』と『あやまち』は全く字が違うのだろう」

「詳しく解説する?」

「いや、いい」

 ただ静かに、白波が立っていた。

 内海うちうみだから内海うつみだとはよく言ったもので、いつもの堤防から見る水面は、頗る穏やかだった。どこまでも続く灰色の空はひどく気だるげで、今にも落ちてきそうだった――水平線で海と交じり合い、世界の輪郭は曖昧だった。

 吐く息が白く濁って空と混ざる。

「そうやって白い息を吐いていれば、タバコを吸った気には」

「ならない」

 なるわけがない――二酸化炭素を吐き出して、タールとニコチンを摂取した気になるとはどんな錬金術だよ。物理学賞取れるよ。むしろ平和賞と紫綬褒章取れるかもしれない。

 もこもこの白いダウンに身を包み、隣に腰掛ける学蘭にマフラーな本城を見遣る。寒いやろその格好。

「俺から見たら上もこもこなのに下スカートなののほうが寒そう」

「あ? 時代錯誤のバカが『女子の制服はスカート』って決めてるからだろ」

「……すみませんでした」

「まあ、デザインは気に入ってるから、甘んじて受け入れてやってるけどね」

「……はい。とても似合っています」

 厚めのデニールのストッキングと毛糸のパンツで寒さ耐性は抜群である。

「あ」

 ふわふわと。空が重みに。耐えかねて。

 白い結晶、我に降り積む。

「我かよ」

「我だよ。お前には降らせん」

「わーお神」

 ――今日は、クリスマスだった。

 あれから学校もまあ、ほどほどに普通に通って――もしかしたら、また本城母が何かしたのかもしれない――一昨日から冬休みに突入した。

「星矢だし、それぐらい神は許してくれるよ」

「聖闘士?」

「聖夜」

「夜じゃないけど」

 まだ昼過ぎ――十五時ぐらいだった。けど。

「まあ、いいじゃん。今日くらい」

「そうだね」

「……プレゼントとかは?」

 学校もないのに、こんな時間に呼び出したのだ、何かある筈だ。なかったらまた水中落としだ。

「必殺技みたいに言うな」

「……で?」

「わかったよ――」

 と、彼はこちらに上体を向けて、私の目を見つめる。

「大前」

「うん?」

 目、瞑ったほうがいい?

「いや」

 と彼は素っ気なく返す。

「将来的にさ、誰かと結婚したいっていう気持ちはある?」

「……うん」

 どういう意味だ。……いや、ここはシンプルにして素直に取られるべきだろうか。わからん。

「それで?」と、私は先を促す。

「俺も、君のおかげで英語ができるようになったしさ」

「うん」

 うん、とは言ったものの、彼にそこまでの英語を教えた記憶はないし、教えた英語を彼が吸収していた実感はそれ以上になかったけれども。

「もしさ」

「うん」

「――日本を出たいって気があるのなら、一年」

「……」

「……俺を待てる……かな。環境を、作ってくるよ」

「……」

「……」

「……うん」

 思わず、頷いてしまった。うん。

「うん。まってる」

「ありがとう」

 昔――と彼は。

「昔、『大前リトルガール』って歌があってさ」

 ――もう、彼はわかっているのだ。そんな歌が存在しないことを。

 けれどそれは――まるで言い訳のような枕詞で。

「大前のことさ、……ずっと、小さいころから好きだった」

 私のことを『大前』と呼ぶ彼を、私もずっと好きだった。

『お前』って呼ばれているみたいで――ずっと好きだった。

「俺は行くよ――」

 元気でいてね。

「きっと君に、いい報せを届けよう」

 そう言って彼はすっと顔を近づけて、ふいに「ちゅっ」と――私のおでこに。

 そして彼はその日、この町から旅立って行った。



エピローグ



 あれから、何年経っただろう――私はまた、いつもの海辺で防波堤に腰掛ける。

 乾燥した空気の中に、生臭い、湿った潮風が通り過ぎていく。どこまでも続く青く澄んだ空――ようやくその寒色に、違和感のない体感温度になってきた。

「……」

 胸ポケットに入った煙草の箱を取り出そうとして、やめる。

『君に長生きしてほしいから』

「……」

 思い出し照れ、である。

 思い出し照れをしてしまって恥ずかしくなって、やっぱり煙草の箱を取り出そうとして、

「いや、一年しか経ってないからね」

「うわっ! びっくりした」

「吃驚した?」

「うん」

「どうやって驚かそうかって思っていたら、タバコ吸おうとしだしたから出てきちゃったじゃん」

「うん」

「てゆかさ、俺がいなかった間、タバコ吸ってなかったよね?」

「……ウン」

「え? それどっちの『ウン』? 〝Haven't you smoked? 〟に対して〝Yes〟なの〝No〟なの?」

「ウン」

「……まあ、その反応とね、うん」

 口臭で、わかる。

 と、彼が行った瞬間~~~~~~頭がぐらぐらして、脳みその中の血液の脈動がわかるほどで、顔だけでなく全身が熱く火照ってきた。とりあえず、自ら穴を掘って、そこに土葬されたい。

「おおげさ」

「でも」

「堪え性のない君が我慢できる訳ないって思ってたし」

「おい」

「ま、悔しかったら禁煙するんだね」

「くっそー」

 文字にしてみると滑稽だが結構私は歯をぎゃりぎゃりやって怒っていた。悔しみ。

「そう」

 と彼は話を変える――改めて見ても、一年前からそのままタイムマシンでやってきたんじゃないかってくらい、あの日と変わらない幼な顔だった。笑顔から零れる歯は綺麗な白で、肌はつやつやでノーストレスかってくらい。よっぽど、お母さんがぽやぽや幼な妻なんだろうなー。

「いやいやいや、いやいやいや」

「そんな否定しないでも」

「俺はお父さん似だよ。母さんは……いやいや、母さんは地獄耳だからこの辺で」

「えっ? その辺にいるとか?!」

「いや……もうお母様の話はよそう」

「お母様?!?!」

「だから、話を戻すけど」

 と彼は一息吐いて。

「大前――君、日本を出たがってただろ」

「……うん」

「だから、海外に、君が平穏に過ごせそうなところを探してきたんだ」

「……」

「君のお母さんも、一緒に行くこともできるようには手配しているけれど――君は望んでいなさそうだね」

「……」

 私は――この一年。否、十八年間。

 その言葉を、待ちわびていた。

「だから大前」

 一緒に行こう。ここから出よう。

「迎えにきたよ」

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