5 リリノン・ポイントへ
玄関ホールで眠り込んでいたウェスペルは、人の気配で目を開けた。
「あっらー、やっと起きたの管理人さんったら!」
その声と同時に、数人の会員達が集まって来た。
起き抜けのウェスペルは、多少面食らう。それでも馴染みの会員ばかりに囲まれている内に、いつもの気の抜けた笑顔になった。
気がつけば、もう朝になっており、気心の知れた会員たちは畑の世話や掃除などのためにやってきていたのだった。
「よく寝てたから、起こさなかったんですよ。だいぶお疲れのようですな」
「コーヒー飲みます? ほらこれ、豆から轢いたやつ持って来てるの」
いい香りだった。
「あっ、それ、あたしにも下さい」
聞き慣れた声がする。真貴だ。
「真貴さん、いつの間に」
何故かソファの上で姿勢を正すウェスペルの隣に座り、真貴は声を潜めて聞いた。
「みんなの具合、どう? あなたも……すごく疲れてる」
最後の方は、彼女らしくない弱気な声だった。
ウェスペルは真貴の心中を察し、笑って答えた。
「はい。大丈夫。朱理さんは司磨子さんと交代で診る事にしましたから」
真貴は少し安堵する。
彼女は司磨子をよく知っていた。
会員たちも、コミュニオンの広報誌を作っている真貴のことは、よく知っている。疲れた様子の彼女を気遣って、年配の女性会員が、ポットに入れて持参したコーヒーを手渡してくれた。
「美味しい」
そう言って一気に飲み干した真貴に、いい飲みっぷりだと歓声があがる。
「あれ、そういえば今日は貴一くんが来てないね。お昼からの料理教室、手伝ってくれないのかしら」
残念そうに言ったのは、会員兼料理研究家の先生であった。
ウェスペルと真貴も、顔を見合わせる。
「どっかにいるはずよね。爆睡中?」
「それとも……どこかで食事中とか」
*
貴一は、最寄り駅前を驀進中であった。
手にはスーパーで購入した煮干しと鰹節、それに白味噌の入った袋を持っている。
それぞれにこだわりの銘柄があり、自宅になら揃っているのだが、取りに帰るのが恐かった。
昼からの料理教室は、彼にはいいタイミングだった。
コミュニオンの器材を使えるからだ。
帰り道を急ぎながら、コミュニオンの応接室でフィオンが話してくれた事を反芻する。
リリノンについてであった。
その名称は、十五世紀の半ば、ヨーロッパの片田舎で確認された変性体の女性の名から由来している。
彼女は、ルーナ・プレーナのヴェロスではなく、別の機関によって捕らえられ、処刑されてしまったという。
リリノンは『核』と呼ばれる、結合体を有する。
生命活動を行う全てのものは、生気を発している。
大部分は、吐き出されては消えるが、フラストレーション等のような負の気は、澱となって残留する事がある。
生活現象から生じた沈殿物は、やがて地上のとある場所へと集結し、一定の密度を越えれば核となる。
とある場所、『受容地域』は、近隣に工業地帯がある人口密集地等の環境的特徴、及び、その場所自体が特殊な経緯を有しているという事実を条件に特定される。
受容地域はコミュニオンによって観測され、異変があれば当局に通達、判断を仰ぐ事になる。
異変とは、周辺環境に於いて、汚染され痛んだ『存在』が、『核』に共鳴し、融合を始める事である。
リリノン発生と同時に、受容地域はリリノン・ポイントと断定され昇華対象になる。
『存在』自体に、力を行使するという意識はない。
しかし、『核』を中心に渾然たる融合の形態を取るのであれば、害になる。
多種融合した『存在』の力を有するリリノンは、主に高等生物の聴覚、嗅覚に作用する。それによって急激に増長される衝動、興奮等の感情は、事件、事故にも繋がり易い。極稀に、外界からの刺激を感じ取る感受性の強い個体が、重度の影響を受けて、変性体となる場合がある。
一頻り話した後、フィオンは少し寄る辺ない表情になった。
「朱理殿の様子を見ると此度のリリノン、わたし如きの手には負えぬやも知れん。ウェスペル殿もそのように仰せられ、当局に増員の要請をして下されたのだが……」
一つ深く溜め息をついて、続ける。
「如何せん、ヴェロスはおろか我が同僚さえも口を揃えて、『なんとかなるさ月はおまえの頭上で満ちる』と言ったそうだ」
貴一が、あからさまに気落ちした顔で呟く。
「それ……グッドラックと同じ意味っぽいんですけど」
フィオンは、前半を諦め口調で、後半をうっとりしたように、言った。
「致し方ない。ここの所は随分と人員不足でな。貴一、わたしが万が一し損じれば、すまぬが骨は何れ名のある仏閣か、雅な景色のある場所に埋めてはくれまいか。例えば……」
「いやです」
貴一は髪発入れずに言い放つ。
そして、おもむろに立ち上がった。
「今夜、リリノン・ポイントに行くんですよね。だったら飯、食わないと。おれ作るから待っててください」
フィオンは、応接室から走り出ようとする貴一の背に向かって言う。
「ふろふき大根がいい」
貴一は久しぶりに、笑った。
「承知!」
*
フィオンの言葉遣いはうつる。
歩道を渡りながら、貴一は思っていた。
最初は、普通の女の子らしい言葉なら、もっといいのに勿体ないなどと考えていた。けれど、今は普通って何なんだ、と思う。
フィオンは、フィオンだからいい。
自分はどうか。
いたって普通の男子高校生である。
フィオンが自分と同じ歳であると聞かされた時は愕然とした。
そして、つい比べてしまい、また落ち込む。彼女はすでに自らの行くべき道を、進んでいる。
貴一は元々、自分なんか、と思い込みがちな傾向にあった。
「おれは、おれだからいい。なんて思えねえよなあ」
コミュニオンの通用口をくぐる。畑を耕す会員達に挨拶しながら、緑の(存在)の事を思い出していた。
「すんません。明日は手伝い、しますんで!」
ああ、いいよいいよ、と会員達は言った。
貴一としては、見えない隣人に向けた言葉だったのである。
芝生の通路を一直線に歩きながら、貴一は思っていた。
とにかく飯だ。
今、おれに出来る事をやろう。
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