第4章
1 月が欠ける
月が欠けていた。
白々とした姿を晒しているが、幸い誰の目にも止まらぬようだった。
昼時でも夕刻でもない曖昧な時間帯ほど、人は忙しい。
コンビニやガソリンスタンドは満員、桜の木が連なる遊歩道は自転車が行き交う。そのタイヤが、地面に座り込んでカードゲームに興じる、学校帰りの小学生を掠めて通り過ぎた。
遊歩道は大きな公園に面している。
派手な色の大きな遊具はどれも幼児の城と化しており、ベンチは保護者達の社交場になっていた。
少し水捌けが良くないらしく、雨の名残が残っている。
水溜りの水面は、時折そよと吹く湿った風に、細波を立たせた。
しかしそれも又、誰の目にも止まらぬ事だった。
*
「待って! 朱理ちゃ……」
言い終わらないうちに佳代は激しくむせ込んで、膝を着く。
朱理は振り返らず狭い廊下を走った。
勢いよくドアを開けて飛び出す。
そのまま転がるように階段を駆け降り、マンションの玄関から外へ走り出たところで、ようやく止まった。
「んっ…」
朱理は急激に鳩尾あたりから込み上げて来たものを、抗う間もなく吐いた。
二、三度繰り返すと楽になり、全身の緊張がどっと抜ける。
朱理は、厭わし気な表情で、自らの体内から吐された物を見る。
胃液の混じったそれは、墨色の泥に似ていた。
少し湿気を帯びた空気に、強酸性の匂いが漂うと、朱理は顔を背けた。
静かな住宅街が、いつの間にか薄闇を纏っている。
歪な月が、少しずつ輝き始めていた。
*
一つだけある街灯が、小さな公園を照らしていた。
その隅のベンチに、膝をかかえた少女がいる。
朱理であった。
元々、色白な彼女だが、今は蒼白と言った方が当てはまる。
氷柱のような指先は少し痺れ、まだ小刻みに震えていた。
それでも徐々に気持ちが凪いでいくのが分かる。
数日前、祖母の住むマンションに転がり込んでからというもの、隣り合ったこの公園は彼女のお気に入りになった。
小さなベンチと、乗って揺らすだけの遊具が二つしかなく、いつも人気がない事も気に入っていた。
朱理を佳代が、公園の入口で心配そうに見ており、
「戻っていらっしゃい」と、呼びかける。
しかし朱理は、力なく首をふって
「しばらくしたら、帰るから……」
と、言った。
佳代は小さく溜め息をついて、一人戻って行く。
自宅マンションのすぐ隣の公園ではあるが、夜はやはり心配なのだ。それでも今は、朱理のしたいようにさせてやるしかないと、佳代は思った。
朱理は、その佳代の後ろ姿に、か細い声で「ごめんなさい」と言った。
自分の膝に乗せたぬいぐるみに、顔を埋めるようにしていた朱理が、何かに気付いたように、身体を解いて立ち上がる。
聞き覚えのある声だ。
両手にスーパーの買い物袋を下げた貴一が、公園入口を横切った。
「月波さん!」
考える間もなく、朱理は呼び止めてしまう。自分でも何故だか、分からないが、微笑みが浮かぶ。
ぬいぐるみを掴んで立っている朱理を見て、貴一は眉を寄せた。
「おまえ、また何やってんだ、こんな時間に。佳代ばあちゃん心配すんだろ」
父親みたいな説教だが、どこか暖かさを感じて、朱理は走り寄る。
「あのね、わたし」
言いかけて、すぐに絶句してしまう。貴一の後からやって来た少女の存在に気付いたからだった。
フィオンの方も朱理に気が付く。
「貴一、その童女は」
「隣のおばあさんの孫っす」
「ほお……。何と見目麗しい。日本人形の如し」
そう言いながら、フィオンは朱理にゆっくりと近付いて行く。
朱理は明らさまな不審の表情で後ずさる。
のら猫を餌付けしようとするかのような図である。
助けを求めるような朱理を見て、貴一はフィオンの両肩を思わず抑えてしまった。
肩越しにフィオンが振り向く。全く思いがけず至近距離で、よくあるラブシーンよろしく見合うことになった二人だが、顔色に変化があったのが貴一だけだったのは当然というべきか。耳まで真っ赤になって飛び退いた貴一に、フィオンはきょとんとして言った。
「ゆでだこの如し」
覚え立ての言葉が大変正しく活用されたのは良かった。
そしてこの直後、貴一がここまで帰ってくる間中、ぐるぐると頭を悩ませていた件の解決法が見つかったのも良かった。
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