2 日本で行きたい所と言えば?
フィオンの提持したリストには、日本を代表する伝統的建造物や博物館など、貴一が行った事もないような場所が書き連ねられていた。
「このように、数多あるのだ。ことごとく訪れてみたいが、如何せんそうもいかぬ故、決めた。まずはこれへ行ってみたい」
フィオンがびしっと指をさす。
銭湯、の二文字。
これもまた、日本の重要な文化的施設だ。
何より近場である。
約十五分程歩く間ですら、フィオンは道行く人の視線を集めた。
銭湯の出入口前で、感嘆の声を上げている姿も注目の的だ。
本人は全く気付いていないが、その美貌と古風過ぎる言葉使いは、一驚に値する。
「流石は古来より受け継がれし伝統文化! 聞きしに勝る美しさ」
確かに、宮型造りの見事な外観ではあるが、貴一にとっては、ただのお風呂屋さんである。通行人や、銭湯に来る人々にとっても、出入口の壁や暖簾を触って、うっとりしている奇妙な美人の方が物珍しいに違いない。
「さ、さあ、もう次へ」
「そうだな! 早速、湯浴みをせねば」
「え……っ、ゆあみって」
ひとっ風呂浴びるということである。
フィオンはすでに、がらがらと銭湯の引き戸を開けて下足入れの前にいた。
「これが下駄預け箱!」
沢山並んだ木製の小さな扉を、開けて見ている。
「そう、この中に靴を、ってそうじゃなくて」
タオルとか石鹸等々の準備がなくては、などと懸命に説明する貴一だが、
「この木札が鍵なのだと教わった。成程! このようなカラクリが」
フィオンは、密林で古代遺跡を調査している学者のようになっており、現地人ガイドの話は耳に入らない様子である。
学者は、自分の靴を中に詰めて、慎重に扉を閉じたところで、
「さあ貴一、御一緒いたそう!」と、嬉しそうに言った。
「おれも、ですか?!」
「無論であろう。……嫌か?」
入ります、と即答してしまった。嫌かなんて少し落胆するように言われると弱い。
「ええと、じゃあお金を渡すので、中に入ったらタオルと石鹸を買って、ってうわあ!!」
貴一は、財布を取り落としたのにも気付かない程、慌てふためく。
ためらいなく男湯に入ろうとしたフィオンの腕を掴んで引き戻し、
「おれがそっち、フィオンさんはこっち」
と説明しながら女湯の方へと押しやった。
フィオンは怪訝そうに薄青い目を瞬く。
「わたしは貴一と、互いに背を流し合うて親睦を深めたい。それが大衆浴場の醍醐味と聞く。何故に別々の戸を潜らねばならぬのか?」
貴一は困った。
今、人生で一番困っているかも知れない。
そんな貴一の背後で、くすくすという笑い声がした。
コミュニオン会員のおばさん達だった。料理教室でもよく見かける彼女らが、思いがけず、貴一を助けてくれる事となった。
「月波くん意外とやるわねえ。ものすごいキレイな彼女連れちゃって。はい財布。さっき落としたよ」
「あれっ、すんませ」
貴一が言い終わることなど、おばさん達は待っていない。語尾に被って、「なんだか苦労してるみたいじゃない?あたし達が彼女の面倒みたげようか」
「えっ、いや、この人は彼女とかじゃな」
「いいっていいって。ほら彼女、あたし達と親睦しようね」
平均年齢、四十歳位の女性達に囲まれたフィオンは、貴一を振り返りながら女湯に消えて行った。売られて行く子牛を見送った牧童のような気分になるが、
「月波く~ん、代金、出したげるのよねえ?」
というおばさんの声で我に返り、慌てて男湯の暖簾を潜った。
引き戸を開けると、向こう側の脱衣所のさざめきが聞こえる。時折、フィオンの戸惑った声が混じるが、ちゃんと教わっているのも聞き取れて、貴一は安堵する。
その貴一に、
「渋いね銭湯デート」と言いながら、しわしわの手を差し出したのは、番台のおばあさんであった。
お風呂用品一式と、入浴料二人分が、貴一の財布から消えることとなった。
*
カラスの行水という言葉が、貴一の入浴をよく現している。
脱衣所で、おじいさんやおじさんが、思い思いにまったりしている中、貴一は焦って服を着、外に出ようとした。フィオンがもう待っているのではないかと思ったらしいが、番台のおばあさんが「お連れさん、まだ風呂場にいるよ」と教えてくれた。
それから、どれくらい待ったろう。立ったり座ったり、牛乳を飲んだりしながら、貴一はおじさんやおじいさんが帰って行くのを、見送った。
遅い。女性の入浴は長時間に及ぶのが常というが、実際待ってみると、本当に長い。
漫画本があることに気がついて、貴一が腰を浮かした時、女湯で黄色い声が響いた。
「きゃー! この子、真っ赤になってるっ」という声の他は、反響しすぎて聞き取れなかったが、貴一はいやな予感がした。
「どっこらしょ……」
番台のおばあさんが、女湯の脱衣所の方へゆっくりと下りて行く。同時に引き戸の開く音がして、洗い場からどやどやと、女性達がやって来た。貴一にはその気配を感じ取ることしか出来ないのだが。
「あれまあ」感嘆詞に続いて番台おばあさんは、「お連れさん、茹でたタコみたいになってるよ。のぼせて倒れたんだとさ」と貴一に向けて実況中継してくれた。
「このおねえさん、ずうーっと熱いほうのお湯に浸かってた」女子児童の声。
「そんな、我慢大会じゃあるまいし」
「あ、でもあたしが見た時も浸かってたわ」
「そういえば」
「え、まさか一時間、ずっと……?」
矢継ぎ早な証言の後、沈黙する女湯に、フィオンの微かな声がした。
「あう……? わたしは一体……?」
気が付いたようだ。再び女湯が動き始める。番台おばあさんの指示の元、女性達がきびきびと、フィオンを介抱する様子が伺えた。
貴一は、はらはらと気を揉むが、全裸や半裸の女性達の中に突入できる訳もなく、ただひたすら、うろうろしながら聞き耳を立てているしかなかった。
そのうち、もう大丈夫だからと、おばあさんが番台に戻ってきた。貴一はようやく安堵するが、番台越しの女性の園からは、
「水、もう一杯いかが」
「ああ、御面倒をかけてすまない」
「ほんと、きれいねえ。ほっそいのに、結構出るとこ出てるし。うらやましー」
「そ、そのように触られては」
「だめだめ、まだ起き上がっちゃ」
何やら怪しい雰囲気が感じられるのは気のせいだろうか。自分の邪な妄想が、女性達の通常会話までもそのように感じさせているのだろうか。貴一は激しく頭を振った。
そんな貴一を見ていた、番台おばあさんが、眩しげに目を細めて、
「青いねえ……」と呟いた。
*
「全く以て面目ない! かような失態を晒したわたしにへのご親切、誠、痛み入る!」
土下座でもしかねない勢いで、頭を下げるフィオンに、女性達は皆、優しい眼差しを向けていた。
「気にしないでいいのよう。大事には至らなかったんだし」
「それよりさ、コミュニオンにはいつまでいらっしゃるの?」
「は、はい、今暫くは」
いつの間にか、フィオンを取り囲むように女性の円陣が出来ている。おばさんたちより頭一つ分程背の高いフィオンが、困惑しながらも女性達に微笑み掛けている。
「ね、あたしたちが、あちこち案内してあげる。月波くんよりずっと役に立つわよ」
「いや、それはしかし」
「そうしましょうよ。決まり」
ようやく貴一は、女性陣の中に飛び込んだ。必死でフィオンを奪取すると、自分の背後に置き、そのままじりじりと後ずさる。
「あああの、ほんと、すんませんでした!」
と言うが早いか脱兎の如く、である。
女性達のゆるい声援とブーイングが聞こえなくなったと思えば、今度は携帯が鳴った。
姉、真貴の陽気な声。
「やっほー貴一、うまくやってるう?」
最悪だ。
止めをさされないよう、貴一は電源をオフにした。
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