リリノン・カウンター
@ishida-takumi
プロローグ
腹が減っては戦はできぬ。
名言だ、と、月波貴一は思っていた。
学校という場所では狭い教室で朝から何時間もの間、勉学に勤しまなくてはならない。
将来きっと何かの役に立つであろうサイン、コサイン、もしくは襲い来る眠気と戦って辿り着く昼休みは、束の間の解放感を得るひとときだ。
食欲を満たすための時間でもある。
チャイムと同時に脱兎の如く購買に走る生徒は、数量限定の特製カレーパン、学食に向かう者はオムライス定食をそれぞれ狙っているのだろう。
教室後方の席で貴一も昼飯の支度をしていた。幾つかの大きなタッパーを取り出す。
すでにいつもの友人二人は机を寄せ、自分たちの、日の丸に近い弁当を開けていた。
「見ろよ、俺は弁当に見放されている」
「育ち盛り的には、危機だよな」
などとこぼしながらも、貴一の手元を食い入るように見ている。タッパーの蓋が開かれると、醤油の焼けた香ばしい匂いが漂いはじめた。
豚肉のネギ巻き醤油照り焼きは、限界まで減りまくった腹を刺激する。
「おお! うまそー!」
「す、すげえ!」
感嘆の声と、きらきらした熱い眼差しの中、淡々とタッパーは開いていく。
かぼちゃの和風コロッケ、ジャガイモとチーズのオムレツ、人参のゼリーまで登場したあたりで、友人の一人が身も蓋もなく言った。
「貴一、おまえ愛想はないし、女ウケも悪いけど料理の才能だけは上級だな」
もう一人も言う。
「ああ~、これが彼女の手作りだったらなあ」
「今、決めた。おまえらには、もー作ってやらん」
各々、勝手なことをほざく友人たちに軽くムカつきながら、貴一は自作の料理に箸を延ばす。さあ、それが合図(ゴング)だ。どうぞと勧めるまでもなく、サバンナのハイエナ兄弟に匹敵する勢いで、まずは豚肉ネギ巻きの争奪戦が始まった。
飢えた高校生男子は、やはり肉がいいのか、などと枯れた洞察をしている場合ではない。ぐずぐずしているとタッパーまで食われそうだ。
女子たちの弁当タイムはコミュニケーションの一環としても重要なのだろうが、男子にとっては、食という本能を充足させるためだけにあるといっても過言ではない。腹が満ちるなら何でも良いのだが、もちろん美味い方がいいに決まっている。
友人たちは昼飯時が来るたび、文字通り噛みしめるのだった。貴一と仲良くしておいて良かったと。
ボリューム、味とも申し分のないメニューをデザートまできれいに平らげた彼らは、ようやく箸を置き人心地ついた。
明らかに穏やかな顔つきになった友人が、伸びをしながら言った。
「今日のもマジ美味かった。うちの母ちゃんもこんくらい作れたらなあ」
「うちなんか弁当作りに対する熱意ゼロだもん。貴一に恵んでもらわなきゃ、昼飯は今後の高校生活三年間、ヒサンを極めるぜ」
日の丸に近い自分の弁当を思い出した友人は本気で青ざめている。
実は貴一も昔、食事に対して危機感を持ったことがあり、それが料理を作るきっかけになっていたのだった。
*
貴一は幼少のころからずっと九歳上の姉と二人暮らしだ。
現在はキャリアウーマンであるこの姉がまたものすごく家事に疎い。彼女が台所に立った姿など見たことがなく、食事といえばパンやコンビニ弁当ばかりで、貴一もそれが当たり前になっていた。毎日ひとりで食事をすることにも慣れていた貴一だったが、その日は違っていた。マンションの隣人である森宮佳代という上品なばあちゃんが、手料理をご馳走してくれたのだ。
これが衝撃的に美味かった。
いわゆる家庭の味に対する記憶は既におぼろげになりかけていた貴一だった。しかし、その久しぶりの手料理は、身体の隅々まで広がって、何か遠く懐かしい味を思い出させたのだった。九歳の貴一は、佳代ばあちゃんの見守る前で激しく泣いた。何故かはよく分からなかったが、自分では止められない感情だった。
佳代ばあちゃんは黙って背中を撫でてくれた。貴一が泣きながら完食すると、佳代ばあちゃんは優しい笑顔で何度も頷いた。
貴一は袖口でぐいっと涙を拭うと、への字に結んだ口を開き、
「おれにも作れるようになるだろうか」と言った。
佳代ばあちゃんは最初少し驚いたように目を丸くしたが、すぐに
「もちろんですよ」と笑った。
その日から、貴一は佳代の家にしょっちゅう出入りし、料理を一から教えてもらうようになった。
なんとか作れるようにならなければ食事らしいものは食べられない。
差し迫った危機感から料理を始めた貴一だったが、もともとこの分野には向いていたのだろうし、何より佳代ばあちゃんの教え方が良かったのだろう。乾いた土が雨を吸い込むようにごく自然に、いくつもの献立を覚えていき、腕もみるみる上達していった。
ある夜遅く、仕事から帰った姉に、貴一は半熟卵の乗った、ネギと焼きシャケの雑炊を作った。
姉は弟の手料理を初めて口にして思った。佳代ばあちゃんが「貴一ちゃんは料理に向いてるみたいよ」と言っていたのは、社交辞令でも何でもなかったのだと。
土鍋に入った雑炊を口に運ぶ自分を、への字の口で見守る貴一に、姉ははっきりとこう言った。
「美味しいよ貴一。あんた、やるじゃない」
このとき貴一はなんとも言えず誇らしい気持ちになった。作った料理を人に食べてもらう手応えと快感に目覚めたのだった。
*
「そう言えばさあ貴一」
「は? あっうん?」
すっかり郷愁の彼方に行っていた貴一だったが、突然名指しされ、奇妙な声を発して失笑をかう。
「おまえさ、あのでかい公園みたいなとこでバイトしてるって言ってただろ。あそこって敷地内に畑があって野菜育てて収穫したり、料理教室やったりしてんだって?」
「ああ、うん。俺もよくわからんけど、農協(?)みたいなもんかなあ。でも、とれた野菜や果物はちょっとすごいぜ。今食べた弁当もそこで分けてもらったのを使ったんだけどスーパーで買うのとは段違いで……って何でそーいう話になったんだっけ?」
「あーいや、近所のおねえさんがそこの会員になったらしくてさ」
なぜか照れる友人を見て、もう一人の友人が見透かしたように言った。
「美人なんだろ。好みなんだろ」
「ぎく」
「なるほど。美人のおねえさんと話すために情報が欲しいと。でもな、そのおねえさんには、目当ての男がいるぜ」
と貴一はストレートに言い切る。
「お、おまえ、聞き捨てならねえこと言うじゃねえか」
「管理人のウェスペルさんってのがいてな。男から見てもものすげえ美形なんだこれが。だいたいのOLや主婦が、その人見たさに会員になるらしいから、おそらくそのおねえさんも……」
貴一は菜園の管理、運営をしているウェスペル・アンゲルスの端正で温和な顔を思い浮かべていた。
そわそわと落ちつかなくなった友人は「そんなバカな」とか「美形で外人かよ」とか呟き始める。
まあこいつは放っといて、と、もう一人の友人が話題を変えた。
「貴一さ、松崎団地の近くのスーパーにわりと行くだろ」
「ああ。肉の安売りの時。なんで?」
友人はやや声を潜めて言った。
「あの団地のあたり、通り魔だとか、不審火だとかここんとこやけに物騒だって母ちゃん連中が怯えてんだよ」
たまに通りかかる団地の風景は、記憶に新しい。
近くに大きな川があるが、昔上流にあった工場地帯から流れ出た汚水が沈殿し残留して黒く汚れており、鼻をつく臭いが漂っている。
同じく昔、工場だった場所に建てられた巨大団地は、この、誰も近寄らない川のせいで住人が減少しつつあるらしい。おまけにここのところの物騒な事件が、団地離れに拍車をかけていた。
「確かに、あのへん入り組んでて、建物の旧棟の方は誰も住んでないのに取り壊されないで残ってたりして、ちょっと不気味かもな」
「お前もさ、気を付けた方がいいぞ」
けっこう真顔で心配してるように見えて、
「わかった。そうするよ」と貴一も真面目に答えたのだが、
「貴一になんかあったら」゛俺たちの昼メシが゛というセリフに繋がるであろう友人の蛇足的発言には軽くムカついた。
*
チャイムが午後の授業の開始を告げる。
貴一は軽くなったタッパーを片しながら、夕御飯の献立を考えていた。
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