当方、角ありの嫁御を求む
灰鉄蝸(かいてっか)
序章:追憶
「人間になりたいって、本当に、あなたがそう思ったの?」
少女が、にこりと笑う。
浅く被ったマウンテンハットの下には、白磁のような頬。
秋風はいつだって強すぎる。びゅうびゅうと吹き荒ぶ風から逃れようと、石の土台に寄り添う二人――まだ、一〇歳になるかどうかの女の子と男の子が並んでいた。
いや、もしかしたら少年の方が年上だったのかもしれない。それぐらい曖昧な昔の話だ。
娘がいうには、ここは何百年も前の戦争で焼け落ちたお城で、石垣やお堀の部分だけが本物なのだという。
彼らの頭上では、木々の群れがざわざわと音を立てている。
そう、思えば奇妙な娘であった。
後頭部をすっぽり覆う帽子を片手で押さえ、風に身をすくませる少女。
その
少女の瞳は
風に揺れる真っ黒な髪からは不思議な香りがした。彼がまだ知らない生き物の、鼻孔をつく甘い体臭。
先ほどの問いかけに、何と答えたのか――もう覚えてはいない。
そもそも何故、こんな話題になったのだろうか。黒髪の少女へ向けた目線が、ベージュ色のコートから突き出たしなやかな足を捉えた。
同年代の女の子たちよりも筋肉質に引き締まった太股に目を奪われ、数瞬、瞬きも忘れて魅入る。たおやかな体つきの中、そこだけがむちむちとした肉の厚みは、健康な生を感じさせるものだった。
思考に生まれた一瞬の空白の後、そういえば、今も彼女が自分を見ていることを思い出す。
「うわっ」
突然、少年が声を上げた。やましい気持ちが湧き上がったためである。
これ、相当いやらしい行為なんじゃないか。たとえそんなつもりがなかったとしても、そう思い込んだらもう駄目だった。恐る恐る視線を上げると、何も変わらない少女の笑み。
「破廉恥ですね」
下手に喚かれるより、心を打ちのめす一言だった。ひどく申し訳ない気持ちになった少年は、わけもわからないまま「ごめん」と謝る。
「ええと、その。綺麗だと思ったんだ」
ひょっとしたら自分はすごい馬鹿なんじゃないかと思った。
言うに事欠いてこれはないだろう、と冷や汗を掻き始める。どういうわけか、微笑みを絶やさぬ娘が視線を逸らした。
「あなた、変な人でしょう」
再び顔を上げたとき、少女は呆れた表情でこちらを見ていた。微笑み自体は今まで通りだが、じっとりと粘り着くようなすわった両の瞳が違う。
あかるさまに珍獣を眺める目だった。泣きたくなった。
「……うん、褒められてないのはわかる」
「奇行にはそれ相応の評価しかできません」
彼らの周りだけが、世界から切り取られたみたいに静かだ。
冷静に考えればそんなわけはないのだが、そのときの少年にとっては確かに二人きりの聖域だった。
来歴も知らぬ歴史的遺物など、そう楽しいものではない。なのに、少年の胸は不思議と高鳴っている。甘い胸の疼きが、ちっぽけな恋なのだとすらわからなかった。
彼は遠方からの来訪者だった。
その特異すぎる病を治療するため、先進的研究がなされている学術都市まで来たのだ。
患った病の実態は、生まれつきの体質――すなわち超常能力を持った人間であることだ。二二世紀現在、前例がないわけではなかったが、それを病と断じる姿勢が過剰ではないことに、彼とその家族の不幸があった。
異能異形の力を持つとは、人並みの暮らしが送れないことと同義だ。
社会システムを破壊しかねない異能者を無条件で人間扱いできるほど、皆に余裕がなかった。
何より巨大な暴力を制御する機構として、一個人の良心は吹けば飛ぶように頼りない。おそらく彼の両親とてそれは理解している。
ゆえに彼らは不幸だった。少なくとも、幸福と呼ぶには苦しみすぎていた。血を分けた我が子が、自分たちを育んできた営みから排除される明日を恐れ、ただ当たり前の幸せを掴もうと藻掻いている。
その不信と恐怖が、かえって少年を異形のものとして確立させたのは皮肉としか言い様がない。
周囲の反応はすべて、そういう生き物として誕生した自分の宿命だと思っていた。
卑下も、嘲笑も、傲慢もありえなかった。ただ、人並みを望む家族に安らぎが訪れるのならば、普通の人間の方が都合がいいのだろう――その程度の感傷。
とどのつまり、少年は他人のために人間らしさを求めていた。
両親に連れられて来た病院はえらく退屈で、気紛れに施設を抜け出すのはそう難しいことではなかった。
とりあえず遠目にもわかりやすい城の残骸を目指して歩き出したのも偶然だ。目的意識もなくふらふらと歩いていた少年に声を掛けたのが、この帽子の少女であった。
その第一声が「迷子なのですか」なのがよかった。保護者の姿が見当たらない以上、彼女も同じ境遇だろうと言い返したら、
――わたしは家出。迷子の面倒を見るのに、歳は関係ありません。
などと、のたまうのだ。自身も行くあてがないくせに、人の心配をする姿が奇怪であった。
そうやって話し続けているうち、つかみ所がない性格の彼女に引き込まれていた。最初こそ警戒混じりだった少年も、ぽつぽつと己の身の上を語るまでになっていたのだ。
おそらく世間では珍しい境遇と、他人への気遣いから生まれた願望を。
そして冒頭の問いかけが来たのだ――今となっては台無しになった、真剣な質問が。
核心をついた問いかけに、彼は動揺していた。
少なくとも、思い出したら赤面するような言動をする程度に。
当然、少年は居たたまれない気持ちになった。気まずい空気から逃れるように泳いだ視線が、木々の群れに紛れる何かを視認する。
まず人間ではなかった。彼の性質――先天的超能力者としての力は、人体の接近を見逃さないはずだから。
いつの間にか二人を取り囲む『何か』は危険だった。
数は六つ、体高は一四〇センチメートル程度だ。全体のシルエットは二輪車に似ており、外装はつやのない強化カーボン、車輪の代わりに備える機構は肉食恐竜を思わせる二本足。
現代風の鎧を纏ったヴェロキラプトルの風情を持ちながら、その得物は牙や爪ではない。
まるで
ロボット兵器の一種、陸戦無人機である。ニュース番組を見ていれば、戦車や戦闘機と同じぐらい目にする機会があった。幸い、まだ誰も気付いてはいないが、衆目を集めればどうなることか。
あまりのことに絶句した少年の脇で、少女が一歩、前へ踏み出した。
「あなた方には……良識もないのですか」
涼やかな
途端、少女の顔から血の気が引く。
「やめなさい」
それと対照的なのが、少年の反応だった。
無機質な殺意が集中した瞬間、彼本来の冷静さが戻ってくる。少女と出会って生まれた、夢のような甘い疼きも止まる。
ああ、そういう連中か――特異な体質のためか、己を化け物のように扱う輩は多かったし、一時期、父親が息子への処遇で苦悩していたのも知っている。
だが、少年に対する追手ではあるまい。よもや、病院から抜け出したぐらいで殺されるはずもなかった。ならば、この殺人ロボットどもの目当ては、彼と向かい合う少女のはずだった。
「あれ、きみの家族か。連れ戻されたら楽しくないことになりそうだけど」
複雑な背景を想像したわりに、口から出た言葉は冴えないままだ。
信じられない生き物を目にしたと言わんばかり、帽子の少女の双眸は真ん丸に。
ああ、馬鹿だと思われたかな、とため息。十代の子供にあってはならない、冷たすぎる眼差しが機械を見据える。
「まともじゃない」
「わたしが大人しくしていれば、あなたは無事で済みます」
深い
まるで罪を告発された咎人のような風情――少年まで悲しくなるような表情である。
「巻き込んでしまって……申し訳ありません」
そんな目をするなよ、と少年は思う。
「いいよ、別に。ぼく楽しかった、それでいいじゃないか。あとさ」
遠隔操作されている機体なら、操縦者が近隣にいても不思議ではなかった。それを見つけ出して、どうにかしてしまえばいい。
何より、少年にはその手段がそろっている。生来のさが、超常種――人類から生まれた超常能力者としての力だ。驚くほどあっさりと、一線を越える覚悟がついた。
「誰だって、不幸せな女の子がいたら助けたいって思うよな」
勘づかれて射殺されるのが先か、彼の異能が運用者を見つけ出すのが先か――賭けになるはずだった。
結論から言えば、少年の目論見は外れた。
とんでもない衝撃が、腹部へ響いた。息ができなくなり、地面へうずくまって涙をこぼす。自分が殴られたのだと気付くのに、五秒ほどかかった。
腹を殴打されていたが、狙い澄ましたように急所を外されていた。ほとんど予備動作もなく彼を撲ったのは、守ろうとした少女だ。どうして殴られたのかはすぐ理解できた。
思わぬ一幕に毒気を抜かれ、無人機の銃口が少年から外されていたのだ。彼に背を向けて歩き出した彼女の背中は、思いのほか小さくて。
よりによって、そんな娘に庇われるおのれが腹立たしかった。
不意に、少女がこちらをふり返った。背中まで伸びた長髪が風になびき、琥珀の瞳が向けられる。少女の眼差しと向かい合い、少年は目を見開いた。
これまで見たことがないような美しさだった。
無償の献身を受け取った人間の、煌々と輝く意思の光。
「ありがとう。でも、誰も幸せになれないやり方です」
それはきっと、時間にして二〇秒にも満たないやりとりだ。そうでなければ無人機どもが黙っているはずがない。
しかしそのときの二人にとって、互いの言葉を交わす今は永遠に等しかった。
掠れた声で、ちっぽけな背へ問いかけた。
「――じゃあ、ぼくは何もしてやれないのか」
少女はすぐに答えようとはしなかった。
数瞬、ためらうような仕草を見せた後、被ったマウンテンハットを取り去ってみせる。
思わず息を呑んだ。艶やかな黒髪が覆う後頭部から、二本の太い突起物。
亜人の証たる、三日月型に曲がった角だ。
「わたしも普通じゃないから、大丈夫。どうかその優しさを、わたし以外のために使ってください」
秋の出来事だった。なのに思い返す度、少女の微笑みは満開の桜のように思えてならない。美しさゆえに、散ってしまいそうな微笑み。
それから後のことはあっと言う間だ。
少女の後ろ姿を見送り、再び木々の合間に無人機が消えて十数分。
ぼうっと立ち尽くしていた彼は、迎えに来た両親に心配されていた。
それだけの話だ。
少女の問いかけに、何と答えたのか。
今に至るまで少年は、自身の応答をついぞ思い出せない。
けれど、眩しい笑顔だけは忘れられなかった。
それ以来ずっと、道しるべに等しい何かが胸の奥にある。
幾度、道に迷い自身を見失おうとも、あの笑顔へ誇れる生き方をしようと決めた。
――これは、二人が再会するための物語である。
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