18.欲望
浴衣姿の乗客でごった返した電車を降り、いつもの見慣れた改札を抜ける。時刻は夜の九時。規則正しく伸びる街灯の列がいちだんと輝いてみえた。
「なんだか今日は忘れられない一日になりそうだよ」
突然ぽつりと呟いたその横顔は、少しだけ微笑んでいる。
「ワタシもそう思う。いかにも青春って感じがして楽しかったな」
「青春、かあ……」
ため息交じりの吐息が、街中の薄汚れた空気に溶けていった。さっきからいつにもましてアンニュイそうだ。
要くんが、これは独り言だから気にしないで、と前置きをして静かに口を開いた。
「僕ってさ、青春をモチーフにした作り物ってほんとうはあまり好きじゃないんだ。爽やかで、屈託のないキャラクターが良くも悪くも王道の展開の上を進んでいくのがちょっと退屈でさ。挙句の果てにはラブストーリーも含んじゃって。複雑な要素が絡み合ってるのに結末はいつもおんなじハッピーエンドなのが、同じ境遇の僕にとって劣等感を感じるんだ」
彼なりの心の叫びなのかもしれない。
ワタシはただ、黙って要くんの独り言を聞いた。
「京華さんってさ……、キスのあとには何が待っていると思う?」
「え、……えっ⁉」
ちょっと待ってほしい。いきなり飛び出したこの質問の意図はなんだ?まさか要くんが……こんなセクハラまがいのことを?慌てふためくワタシの顔を見て、要くんはクスリとも笑うことなく表情変えずに説明を補った。
「別にそういう変な意味じゃないんだ。映画でも小説でも、クライマックスはいつもキスシーンなのが昔から気になっていてさ。そのシーンが終わったら、見ていた僕らは引き離されて物語は見えない場所に隠されてしまう。エンドロールの向こうにも物語は永遠に続いてるって、信じて疑わないタイプの人間なんだ、僕って」
「ああ、そういうことね。ちょっと焦った……」
「ごめんごめん。言葉が足りなかったよ」
要くんの顔に小さな笑顔が灯った。でも、それはうわべだけのことで本当は深く思い悩んでいることが隠れているのは明明白白だ。
そんな彼の質問に小さな頭を振り絞って答えを考える。ここはワタシの思うそのままの回答を示すのが礼儀だろう。
「ワタシはキスシーンで完結してもいいと思うな。ひとつの話の区切りとして演出されているのも好きだし、もちろんその過程だとしても大いにあり得ることだけどね。でも言い換えたらそれも到達点のひとつじゃない?」
物語はいつか必ず終わるものだから。続きを待ち望んでいる人がいれば、反対に終わりを願っている人も必ずいる。
ワタシだって物語の終わりを渇望している。
「美咲ちゃんは彼氏のこの質問にどう答えるんだろうね」
数秒の沈黙のあと、要くんは苦笑いを浮かべた。何かを悟ったような、そんな顔だった。
「美咲さんもああ見えてありふれた作家の一人に過ぎなかったんだな、きっと」
その一言がワタシを大きく揺さぶった。いまこの瞬間にストーリーは結末を迎えた。そう確信した。
「要くんはさ」
隣同士並んで歩いている男の子が、「どうした?」と聞き返す。
「要くんは、自分じゃない誰かの存在がなくても満足できる?」
答えは返ってこなかった。それでも、ワタシは言葉を並べ続けた。
「いまの要くんには、美咲ちゃんっていうパートナーがいるから気づいていないかもしれないけど、人間が一人だけで生きていくのってすごい苦労することだと思わない?他人の支えっていうか、そこにいてくれるだけで充分っていうか、そんな人が必要に感じる瞬間がきっとあるんだ」
「京華さんってば、急に哲学的になっちゃって。もしかして、僕への告白?」
「……うん」
羞恥心だとか、照れだとか、そんな感情は不思議にもあらわれなかった。きっと要くんも同じだろう。
「ワタシね、要くんが近くにいてくれてすっごい感謝してるの。学校でもそうだし、今日だって一緒に出掛けるのが嬉しくてたまらなかったんだ。いつもそばにいる要くんがワタシの当たり前になって、姿が見えなくなっちゃうのが不安で……」
喉の奥から鈍い痛みが襲ってくる。言葉を絞り出そうとしてもなかなか出てこないで、かわりに視界が涙でぼやけてくる。
不安だった。
要くんがワタシを忘れることを心配することすら怖かった。誰かに思われることは、決して単純なことではない。
他人に見返りを求めるのは間違いだという世間の常識に真っ向から反抗する気はない。だけど、この思いが伝わったらきっと何かが変わるはずだ。
ワタシの本心は「好き」という言葉を伝えたかったのかもしれない。その言葉に嘘偽りはない。けれどそれでは意味がない。
わがままを聞いてほしい。
ワタシは要くんから離れない。
だから要くんも、ワタシから離れないでほしい。
やっぱり言葉って難しい。
要くんは何も言わず、ポケットからイヤホンを取り出して音楽を聴き始めた。
これでいい。ワタシたちと同じ、表現を愛する要くんが自分の世界に入り込むには音楽が必要なんだ。そこでたくさん考えてほしい。
少しだけ乱れた呼吸を整え、歩幅をそろえて歩く。力なく宙に浮いた手が触れ合う。
そのときワタシの右手は冷たい感触に包まれ、一瞬それが何によるものなのかわからなかった。自分じゃない誰かの手ってこんなに冷たいんだと、繋いだ先の要くんの横顔を覗き見る。
お互い会話することもせず、ただ手だけをつないで夜道を歩く。
この時間が永遠に続けばいいのに、なんてありきたりなことは考えなかった。
―
須藤要くんには、
でもそれは本当の彼女じゃなくて、故意に生まれた嘘。
主人公は要くんに片思いをしているとあるクラスメート。
こっちは恋に生まれた真実。
これまでも、そしてこれからも、要くんには『ミサキ』という名の女の子がそばにいる。
この子が本物の要くんの彼女。
そして、もうひとりの
これが私の作品のあらすじ。
タイトルは……まだ決めていないわ。
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