5.トランスレイション

目の前に並ぶ文字を前のめりになって凝視する姿はなんとも滑稽だ。

自分でそう思っているのだから、周りから見たらそうとう見苦しい形に映っているのだろう。

滑稽どころか酷刑だ。


世間では「つまらない本を読むと眠くなる」という言説が一般化しているが、

自称読書家からすればそんなことはない。つまらない本を読んだらどうなるか。

答えはひとつで、内容が全く頭に入ってこないのである。


なにをもってして「つまらない本」を区別するのかという質問は虚礼虚文だ。

つまらないから眠くなるのではない。

内容が理解できないからつまらないと判断しただけ。

本に責任転嫁することを良しとしない僕は、せめてもの責任を自分に落とし込む。

 


それは誰かが作った物語に対してだけではない。

目の前にある英語の教科書だって。

 

All you need is love.


今日の英語の授業はやけに翻訳作業が多い。

さっきから行っている演習はずっと和訳の問題だ。

解答する順番が僕に回ってきて、改めて問題文に目を通した。



それにしても、まさかこんな世俗的な例文が教科書に載っているとは。

田舎に住む中学生が着るティーシャツに書いてありそうな文だ。

これを訳せだなんて、いくら英語が不得意な僕とはいえ随分と馬鹿にされたものだ。


「ええと……、『あなたたち全員が必要なのは愛だ』ですかね……」


教卓の上から僕を見下ろす担任兼英語科担当の高木先生はため息交じりに訝しげな目を向けた。

なんだ、正解じゃないのか? 

確かに自身なさげに答えたのは認めるが中学生レベルの英単語だけの例文なのだから間違えているはずがない。


「間違いってわけじゃないんだけどなあ。もうちょっと意訳してほしいんだよなあ」


とんだ恥を晒したと後悔してももう遅い。間違いなら潔く間違いと言ってほしい。

中途半端な救済は毒だ。

わざとらしく肩をすくめる高木先生の姿にすこしの恥じらいを感じて音もなく席に座りなおす。



こういうときにまわりのクラスメートは何を思っているのだろう。

誰一人として僕に視線を向けるわけでもなし、

それでもなぜか嘲り笑われている感覚に襲われた。


「こんなこともわからないのか」と馬鹿にされている気がする。


勉強は不得意だけど、人の考えていることと顔色を読むことは得意と自負している僕は

たびたび自滅に追い込まれている。

根拠はないが他人はそう思っているだろうと自分勝手に予測するだけのことだが、

そんな想像には敏感で的中することも多い。


我思う、ゆえに我あり。


僕の目に映るクラスメートは本当はそこにいないのかもしれない。

それでも、周りの目は気になるものだ。

実体が在るか無いかの問題ではない。僕に評価を下す瞬間が有るか無いかだ。



「じゃあ鏑木、いまの例文をもう一度訳してみろ」


僕の右隣に座る美咲さんにターンが回る。

背筋をぴんと伸ばして姿勢良く座っていた美咲さんが、

椅子を手で後ろに引いてから立ち上がった。

膝の裏をつかって椅子を突き出して立つ僕とは大違いだ。



「『あなたに必要なのは愛だけである』、でしょうか」


かぶりをふることもしない高木先生はオーケイと流暢に言い放った。

特に歓声が上がるわけでもない。


美咲さんなら正解して当たり前という空気が教室を包み込む。

彼女こそがルールブックと言わんばかりだ。

僕が間違えて、隣の美咲さんが答えを修正するのはある種のルーティンワークとも言える。


カップルの共同作業。

これほどまでに虚しく、誰からも祝福されない共同作業ははたしてあるのだろうか。


そんな僕の彼女が目線だけは黒板に向けたまま、体を傾けて僕に小声で話しかけてきた。

極端に短くなったチョークを叩きつける音に隠れるようにしてひそひそと話す。


「要くん、すこしまずいんじゃない? ここの部分って次の試験範囲の中でもいちばん簡単なところよ」


「でも直訳するならまだしも、文を意訳する問題はテストに出ないでしょ。答え合わせしづらいし」


「そうじゃなくって最後の自由作文の問題で出てくるってこと。あの問題、部分点が多くて一番稼げるところなんだから」


「あの問題はどうせ部分点も貰えないし望み薄だよ。高木先生のテストで点数を稼げた記憶が無いもの」



美咲さんが、あのね、と言いかけたところで

僕らに背を向けていた高木先生が怪訝な顔をして振り返る。

威嚇ともとれる目線を受けて僕らの会話は強制的に終了させられてしまった。


……

 

授業の終了を知らせるチャイムが鳴り響く。

それと同時に大半のクラスメートが教科書を仕舞い始めた。

けれども高木先生の熱心な解説は終わることなく、結局二分くらいオーバーしてしまった。


満足げな顔をして教室を出ていく先生を横目に、制服のポケットからスマートフォンを取り出して手際よくメッセージアプリを立ち上げる。


新着メッセージが二件。見知った差出人から送られてきた「放課後、時間ある? 」という文言と、最近流行っているアニメのキャラクターがウィンクしているスタンプが僕の心をざわつかせた。


このメッセージが送られた真意がよくわからなくて、クエスチョンマークが目の前を飛び回っている最中、数冊の分厚い教科書を抱えた美咲さんが僕の顔を覗き込んできた。



「早く準備しないとつぎの授業に遅れるよ」


「ああ、ちょっと待って……」


急に話しかけられて、隠すようにスマートフォンの電源を落とした。

ごちゃごちゃした鞄の中からあれでもないこれでもないと日本史の教科書を探す。



それにしてもなぜあの人はわざわざ携帯からメッセージを送ってきたのだろう。

同じ教室にいるのに、というか、僕の目の前にいるのに。

直接言えばいいものを、人の目をはばかようにアポイントメントを取る理由はいくら考えても答えが出なかった。


きっと気まぐれだろう。そう無理やり嚥下して席を立つ。



「じゃあ行こっか」


小さくあくびをして美咲さんの後に続く。

教室を移動するときも基本は二人行動だ。

最初は「バカップル」やら「お嬢と執事」やらと同じクラスの男子に冷やかされていたが、そんな思春期真っ只中の中学生みたいなことはそう長くは続かなかった。


美咲さんがいわゆる自他ともに認める完璧な人間であることと、

学年内でカップルが大量発生したことが幸いして、僕らは見ていて害のないコンビだと認定された。


そんなことを知ってか知らずか、美咲さんはことあるごとに僕のもとに寄ってくる。

それに対して、僕もまた困ったことがあれば彼女に助けを求めるのだ。


ただ、演技でカップルを装っていることを知っているのはきっと誰もいない。

この関係が偽だとばれたらどうなるのだろう。

所詮高校生の間柄なのだから、そんなことを考えるのはまさしく杞憂だ。


だけど、学年を超えて存在する美咲さんの熱狂的なファンからは何かしらのアクションがあるだろう。

最近も陰から嫉妬と怒気を含んだ視線を感じるが、これもおそらく美咲さん愛好家の仕業だ。


そんな視線も、ひねくれた僕にはちょっとした優越感に変換される。

誰もが望んだけれど、誰一人として得ることができなかった美咲さんの相棒役は、いま僕の手の中にある。

経緯はどうであれ、事実は事実である。




「そういえばさっきはなんて言おうとしたの? 」


日差しが照りつける廊下が眩しくておもわず目を細めた。

ふと、一時間目の授業中に中断させられた会話の続きが気になっていた僕は唐突に話しかけた。


「知識を詰め込むのもいいけど、相手の顔色を見ないとテストでいい点とれないってこと」


どういうこと、と聞き返そうとしたが美咲さんは話を続ける。


「相手が何を求めてるのか予想するのが先決よ。たとえば、さっきの英語だったら高木先生は和訳じゃなくて意訳にこだわっていた。要くんも想像がつくでしょうけど普通の教師だったら、あんな採点基準が不安定な部分は飛ばすはずよ。あの先生たら今年に入ってから大学受験対策だのなんだの言っているけれど、それなら一問一答だけやっていればいい話。でも、執拗に私たちにそれを求めるのはなぜだと思う? 」



 突然の問いかけに不意をつかれ、うんうんと呻きながら思考をめぐらせる。

根拠はないが、ここで「わからない」と言ったら負ける気がした。

勝ち負けの問題ではないが、理詰めで言及されたからにはこちらからも意見を提示するのが礼儀だ。



「ようするに言葉の幅を広げさせようとしているのかな。ひとつの単語でも色々な意味がある、それを文章のなかで臨機応変に使い分ける力を身につけるために翻訳作業をさせられている・・・・・・とか」



「半分正解。私が思うに、たぶん高木先生は複雑な語彙力を伸ばそうとしている。それこそ単語帳には載っていないニュアンスの部分まで含めてね。言葉と意味が完全なイコールにならないときもある。日本語と英語だったらなおさらのこと。だからあの先生に限って言えば、単語帳より自分の直感のほうが役に立つかもしれないわ。まあ、人の考えることだから確証はないけどね」



「じゃあ、テスト勉強はしなくてもいいって言うの? 」



「それとこれとは話は別よ。とりあえず文法よりも英単語だけ詰め込んでおけばそれなりに点数は取れるんじゃないかしら」



なんとも無責任だ。

でも、対策は教えてもらえた。

高校3年にして、ようやく勉強の余地が生まれたのは遅すぎたくらいか。




「言葉と意味がイコールにならないときがある」

そんなことが本当にあるのだろうか。

半分小説家の美咲さんが言うことだ。

マリアナ海溝並みに深い意味があるか、もしくは見かけだけで中身のない張りぼてのどちらか。


極端だが、それが美咲さんの言葉が持つ力だ。

この場合はおそらく前者に近い。僕なんかいとも簡単に飲み込まれるくらい深い意味がある。

いや、僕は既に飲み込まれているのかもしれない。




「要くんはさ、『あなたに必要なのは愛である』っていう文と

『あなたに必要なのは愛である』っていう文、どちらが正しいと思う? 」


不敵に笑う美咲さんには一体いくつの「意味」があるんだろう。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る