第22話・解放されるナニか
「…あの、もしかしてそれって吾音が作ったの…?」
広げられた弁当箱を箸で指し示し、恐ろしいものを見てしまった、みたいな調子で伊緒里は向かい合わせに腰掛ける次郎に話しかけた。
「もちろんそうだけど?」
「…信じられない」
言われて次郎は自分の弁当を見下ろす。
卵焼き。和風出汁の利いた甘めの味付けだが、冷めたときに丁度いい塩梅になるよう調整されているのか、出汁に含まれる昆布の塩気と味醂の甘味のバランスがとれている。舌に馴染む、というやつだ。
から揚げ。鶏はササミの部分を使ってはいるものの、パサつかないように衣のさらに下から下ごしらえがしてあり、味付けもほんのちょっと香る程度のニンニクが利いて、口に運ぶごとに食欲が増すようですらある。
野菜としてはブロッコリーが目を引く。次郎はこの歯触りが好きではなかったが、吾音が弁当に入れるときは必ず、オイルを含まないドレッシングで薄く味を付け、しかもそれは次郎の好きなゴマ風味。
米は地元の農家から直接購入している。等級こそ有名産地のブランド米には及ばないが、名より実。完璧な水の量と時間で炊き上げられた米は、冷めたときにこそ白米の真価は問われる、ということを声高に主張していた。
その上に鎮座している梅干しは紀州南高梅の逸品。先日帰宅した祖父母の土産物にあったものだが、最近の梅干しとしては酸味も塩気も強く仕上げられていて、冷めた味に倦んだ舌をピリッと目覚めさせる、弁当箱の隠れた主役だ。
つまるところ。
「…冷凍食品も使ってないみたいだし、どれだけ手が込んでるの、この弁当」
ということに尽きる。
「流石にこれを毎日作るほどじゃねーって。おふくろと交代でやってるみてーだし」
「それにしたって尋常じゃないわよ、この手間のかけ方…高校生が登校前に作ってられる内容じゃないわ」
「…そんなもんかねえ」
伊緒里に引っ張られて離脱した後は、珍しい物を見る好奇の視線にさらされながら落ち着く場所を探した。といって昼休みの校内など人の集中する場所など決まっているし、何よりもアホなくらい広い学園であったから、二人分の人影を人の目から隠す場所など事欠かないのだが。
その中でも、校舎からは見えない経研管理下の植物園にある
「…なんなら食ってみる?」
「ええっ?!…ってあのあのちょっと流石に私としても人目がないとはいえ……」
「ほれ。早く好きなの取りなって」
「え?」
自分の弁当箱を突き出している次郎。この中から持って行け、ということなのだろうが。
「…私、今日はサンドイッチでお箸持ってないんだけれど」
「手で取ればいーじゃん」
「そういう意味じゃ…いいわよ。そんな非衛生的なこと出来ないし」
「そうか?美味いのになあ」
次郎はそこで弁当箱を引っ込めた。「あっ…」とか伊緒里が言っていたような気もしたが、ちらと見て箸の動きを再開させただけで特に構いはしなかった。
そのまま会話もなく黙々と食事は
一度、次郎が飯を喉に詰まらせたようにしていたが、伊緒里は自分のボトルを手に取りかけて止め、「大丈夫?」とここは心配そうに声をかけた、くらいのものだった。
この場は高等部の校舎からは目に止まらない。昼休みの賑やかさとも無縁で、静かに休みたいのであれば穴場であるから、今のところ自分達の他に高等部の生徒の姿は見かけてもおらず、邪魔する者のいない時間はやがて予鈴まで十分足らず、という頃合いになった。
「…ごちそーさん」
弁当箱を空にした次郎は両手を合わせ、丁寧な手付きでそれを片付けると弁当箱が入っていた巾着にそれを収めた。
食の細い伊緒里ではあったが、なんとなく過ぎる時間を惜しむようにゆっくりと口を動かしていたので、次郎よりは遅れて、持ってきていたサンドウィッチを食べ終える。
「…吾音が料理するのは知っていたけど、そんな面倒なこともするとは思わなかった。料理だって雑なものだと思ってたのにね」
片付けが終わると、四阿の外をぼけーっと眺めてた次郎に横顔にそんなことを言ってみる。
「あー、姉貴の師匠はばーちゃんだから、結構細かいこともやってるぞ?三郎太はチャーハンしか作れねーけど」
「まるで自分は何もしないみたいな言い草じゃない」
「実際しねーって。三郎太だって、姉貴が手を離せない時にちょっとやるだけだし」
「そう。やっぱり、あなたたちは仲がいいのね」
心から感心したように言う。
「そうでもねーぜ。姉貴は何かと俺をどやかすし、何度ケンカしても勝てやしねー。三郎太はまず間違い無く姉貴の味方すっから、ケンカした場合必ず俺が負けるようになってんの。やってられねーって」
「…その割には楽しそうじゃない」
呆れてそう言ってはみたものの、次郎はまたこれが心外だ、とばかりに目を見張って伊緒里の顔をマジマジと見る。
「あんまり見ないでよ」
「いーじゃん、別に」
それでも次郎は目を逸らし、丘の向こうにあるだろう校舎の方に顔を向けた。
梅雨前の心地よい風が四阿の中を通り過ぎる。
伊緒里は我知らず火照った頬が冷まされるような心地がした。
「…俺らが楽しそうに見えるってんならさ」
「え?」
絞り出すように聞こえた一言は、伊緒里の注意をひいてその視線を次郎の横顔に向けさせる。
「かいちょ…阿方だって姉貴とやり合ってる時は楽しそうに見えるぞ。ケンカしてる時ですら、俺にはそう見えるんだけどな」
「………」
返事を期待したわけでもなさそうな言葉に、伊緒里はやっぱり黙り込んでしまう。
そんなこと、言われるまでもない。
自分は吾音を嫌いなわけじゃない。
吾音が私を嫌う理由はあっても、私の方からあの子を
(そう言えたらいいのに)
心からそう思う。
「…そろそろ時間になるし、いこーぜ」
巾着を手に、次郎は立ち上がった。
けれど惜しむようにも見えたその仕草に、伊緒里は思ってもいなかったことを口にする。
「あのっ…!じ、次郎くん…?私のことは、その…名前で呼んでもらいないかしら?『会長』、なんて肩書きとかじゃなくって。また、去年みたいに…」
「……それもそーだな。大体『会長』なんて呼んでたんじゃ、秋になって会長降りた時に何て呼べばいーかわかんねーもんな。はは」
そーいう意味じゃない、とムッとはしたが、続く一言に落胆する。
「…けどまだはえーよ。なんつーかさ、いろいろと」
「………そう」
今度こそ、次郎は先に立って四阿を出た。
その背中を追おうとして伊緒里は立ち上がり、けど根拠のないムカつきで罵声の一言でも浴びせてやろーかと思ったその時に。
「まあ、でも他人行儀は俺と…阿方らしくはねーって思うから。しばらくはさ、そう呼んでおくよ。それでいーか?」
そう言われて、伊緒里は腰に力が入らなくなり、丸太を切り出した腰掛けに座り込んでしまった。
「阿方?どーした?」
「あ…うん、なんでもない。それでいいから。今は、ね」
「変なやつだなー」
「あなた…次郎くんに言われたくないわよ」
それもそーか、と屈託無く笑う次郎に、伊緒里はなんだか忘れかけていたものを取り戻せたような心持ちがしていた。
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