サイレントニアラズ

サシガネ狸

00 序

 すり足。畳を縫うように素足が距離を詰める。防具はもはや体の一部。

 面の格子の奥から覗く眼光は鋭く、弱気など一切見せていない。相手の瞳からは、相手を打ち負かしたい、己の方が格上だと知らしめたい、とする単純な野心以外の感情が読み取れなかった。

菖瞳あやめ。竹刀はしっかりと構えなさい」

 アドバイスは自分でもわかっていた。相手と対峙した時点ですでに気持ちで負けていることを子供ながらに自覚していた。

 まっすぐとした相手の視線に比べて自分はどうすれば相手を打ち負かすことができるかと目が泳いでいるのだから。

 菖瞳は父の教え通りに竹刀を握りなおし、腰を据えて身構えた。

 本来なら気持ちで負けるのも無理もないのだ。相手は菖瞳の四歳年上なうえに男の子なのだ。体格格差で勝敗は目に見えている。

「ハアッ!」という掛け声と床を突く地鳴りで相手は小さな菖瞳を威嚇した。

 対して菖瞳はひるみそうになりながらも相手の出方をうかがっていた。相手の威嚇に比べて彼女は静かなものだった。相手の気迫に臆しながらも冷静に努めた。

 幾度かの威嚇の後、ついに相手からの初手が襲いかかってきた。上段からの面狙い。

 菖瞳は刹那的に竹刀を受け躱すとすぐに体を向けた。

 その瞬間、門下生らから歓喜の声が上がる。

「菖瞳が躱した!」

 いの一番、道場に声を響かせたのは12歳の少年だった。少年は歓喜のあまり、その場から立ち上がるとコートのラインに足を踏み入れた。

「雪虎!下がりなさい」

 少年は叱りつけられ、おどけたように足を跳ね上げながらライン外に下がっていく。

 そんな彼の様子に気を取られた菖瞳はあろうことか試合相手の掛け声で我に返る無様な姿をさらした。思わず飛び跳ねるほどに驚いてしまった。

「菖瞳!集中しなさい!」

 その指示が良くなかったのか彼女の体は急に強張り思うように動けなかった。

 相手の攻撃が左から来ることは分かっていたのに体が言うことを利かないのだ。

 あえなく左から来る竹刀の先が菖瞳の小手に振り落とされた。

 負けを取られた瞬間に、ほんの数分間のことだったはずの試合が数十分も戦っていたように体に重くのしかかる。

 菖瞳は作法通りに礼を交わすと我先に防具を投げ捨てた。

「防具は大切に扱いなさい」

 一部始終を指導していた嶺橋茂雪がすかさずに彼女に注意した。

 菖瞳は渋々防具の残骸を拾っては不貞腐れたようにして部屋の隅で壁に向かって正座した。小さな手のひらはぎゅっと結ばれ両腿に強く押し付けているのだ。

 反して勝利した一二歳の男の子は意気揚々にコートを離れると先輩方にどつかれながらも高笑いして防具の掃除を始めている。

「菖瞳、すごかったよ。優馬の攻撃よけたんだぞ」

 声をかけてきた雪虎に菖瞳は反応しなかった。ただひたすらに正座姿を崩さずに目をつぶっていた。

「そう落ち込むなって。相手は俺みたいなもんだぞ。あれだけの動きができたのなら優馬も焦っただろうよ」と雪虎は菖瞳の頭をぐちゃぐちゃに撫でて離れようとした。

「お兄ちゃんのせい」

「ああ、悪かったよ。試験に乱入したんだからな」と雪虎は頭を掻いて謝った。

 それでも妹の機嫌は収まらず、依然として拳を握りしめた両手は腿を押し付けていた。

「どうしてそんなに悔しがるんだ?相手は六年生だぞ。それに昇級試験ならまたやればいいじゃないか」

 兄の無神経さに彼女は大きな瞳を向けてにらみつけた。それは四歳年上の雪虎でさえひるんでしまうほどの強い眼光だった。

 周りではすでに終礼を行っていた。十人強の児童や生徒が畳に正座し帰りの会を催していた。

 先生のさようならの挨拶に門下生たちは一斉に道場を後にした。開け放たれた戸口からは外からの冷たい空気が流れ込み、数秒の内に道場内は神聖な空気を取り戻し始める。

「菖瞳、いつまでそうしている?」

「だって」と言いながら渋々と防具を持ちあげた。

「雪虎、代わりに防具を片付けてあげなさい」

 命を受けた本人は嫌な顔を浮かべて菖瞳を見たが、妹の落胆ぶりに出掛かった言葉を飲み込んで素直に従うことにした。

 手持ちぶさたになった菖瞳は顔を上げることなく足の爪を見つめていた。

 ほどなくして別の賑やかさが道場内に響き渡ってきた。生徒らが放つ若々しいはしゃぎ声とは違い、咳払いやあくびを含んだものだった。

「おう、アヤちゃん。今日はこれからかな?」と一人の五〇代の痩せたひげのおじさんが菖瞳に気が付くと声をかけてきた。

 すると菖瞳は顔を下にそむけたまま道場の奥へと向かって行った。

「おや、今日はご機嫌斜めか」とおじさんはさみしそうにつぶやいた。

「菖瞳、部屋で待っていなさい」と嶺橋は背中に声を掛けた。変わらず彼女からは反応はなかったが、それを叱りつけるつもりはない。

「先生、お嬢さんの扱い大変でしょうね。俺も一人娘には手を焼いたもんだよ」とまた別の六〇代の白髪のおじさんが口をはさんだ。

「うちも娘が口利かんくなって難しい年頃だ。高岡君も女には気を付けなよ」とひげのおじさんがそばにいた大学生に向かって突然話を振った。

 訳の分かっていない高岡は苦笑いを浮かべてとりあえず頷いてみせた。

「高岡!」と今度は嶺橋が彼を呼び止めた。

 彼は元気に返事をすると畳の上をスイスイと音を立てずに師匠の下に駆け寄った。

「少しの間、十分ぐらいだけど指導頼めないか?」

「俺がですか?渋川さん辺りに任せるべきじゃあ…」と先ほど話を振ってきた六〇代おじさんを見ながら言った。

「俺の一番弟子だろ?」

「それって今でも本当ですか?雪虎じゃなく?」

「わかるだろ雪虎は息子だ。息子だからって特別視しない。だから頼んだよ」と師匠は高岡の両肩をぎゅっとつかんだ。

 先生に認められたことがうれしかったのは言うまでもない。高岡は思わず右手を額に添えて敬礼していた。


 菖瞳は一人指導室の中で正座していた。己を無にし、空気の音に耳を傾けていた。

 小沢優馬との試合の時に感じたかすかな感覚が頭を離れなかった。忘れようとしていたわけでなければ、意図して反芻しようとしたわけでもない。不思議と感覚が脳裏をかすめるのだ。

「菖瞳、寝ているのか?」

 意識を取り戻すと机の目の前に父嶺橋茂雪が座っていることに気が付いた。どうやら正座したまま眠っていたのだろう。

「さっきの手合い、なぜ集中できなかった?」

 父であり、師匠である茂雪はまっすぐと娘の目を見つめて聞いた。

「だって、お兄ちゃんが…」とうつむいたままに言った。

「雪虎が乱入したからなんだ?問題はアヤの集中力だろ」

「集中力じゃないもん。相手は男子だし、六年生だよ。私が勝てるわけないじゃん」

 どこかで聞いた受け売りの言い訳を口走っていることに菖瞳自身自覚していた。

「お父さんはそうは思っていない。アヤは小沢君に勝てると思っていた」

「どうして?」と菖瞳は堪えていた涙を流して聞いた。

「それはアヤが知っているんじゃないのか?お父さんが思っている以上に」

 菖瞳は何のことがわからず頭を大きく振った。

「じゃあ、なんで涙が出てくる?言ってみなさい。何がそんなに辛いんだ?」

 小さな過呼吸を整えると彼女は一言こうつぶやいた。

「悔しい」

「どうしてだ?相手は六年生で男なんだろ。負けても仕方ないんだろ?」

「だって…っ…っ。私の方が…っ…っ…長いもん。三歳からやってるもん…」

 声を絶え絶えにしながら菖瞳は懸命に胸の内を明かした。それは初めて悟る悔しさの真相。ただ負けていた時とはすこし違う景色。始めて相手の力量に届きそうになった今の彼女だからこそ見ることのできた世界。

「あんな…っ…ちょっとやったばかりの…男子に…っ…っ負けたくない。それにっ…お父さんの…っ…子だもん」

 勝敗を決した左手への感触を残しながら道場の隅で押さえていた感情はこれに尽きるのだ。

 茂雪は父親の顔で娘の頭を撫でつけた。勝敗だけではない、剣道を通して教えたいことはたくさんあるのだ。これは師匠ではない、父親としての願い。

 厳しくも優しい父の表情は泣き止んだ菖瞳の表情を晴らす力があった。

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