第1章

第1話

「あんたも友達のひとりくらい、さっさと作りなさいよ」


 真冬の冷たい朝日が降り注ぐ通学路の途中。厚手のコートを打つ鈍い平手打ちの音が響いた。一緒に登校している幼馴染み、古坂こさか紗英さえに背中を思いっきり引っ叩かれたのだ。


「いったいなぁ……」


 両の手をポケットに突っ込んだまま、隣を歩く紗英を睨みつける。それなのに、紗英はにこにこと微笑みながら顎をつんと持ち上げた。


「これでも心配してるのよ。光樹みつき、教室じゃいつもひとりだし」

「本読んでたら、誰だってひとりになるだろう」


 芦原あしはら光樹。18年間共にあった、僕の名前だ。でも、僕をその名前で呼ぶのは、家族を除けば今のところは紗英だけだ。


 空気は凍りつくほどに冷たくて、ほのぼのと降り注ぐ陽光が雰囲気だけを暖めている。大通りから離れた路地は閑散としていて、僕ら以外の人影はない。あるのはふたり分の白い吐息と、前方に伸びるふたつの人影と、調子の異なるふたつの足音だけだった。

 ひとつはずるずると半ば引きずるような、情けない音を立てる僕のスニーカー。

 もうひとつは、リズムよくアスファルトを叩き、心地よい音を奏でる紗英のローファー。

 吐き出す息の白さは同じなのに影の長さが異なるように、育ってきた環境は似通っていても、紗英と僕の性格は正反対だった。

 例えば、汚れひとつない紗英の鞄と、破れて教科書がはみ出している僕の鞄。

 例えば、寝癖ひとつない紗英の髪と、放置しすぎてボリュームが半端じゃない僕の髪。


 そしてなにより。


 いつでも多くの友達に囲まれている紗英と、いつでもひとりで本を読む僕。

 紗英の心配はもっともだ。紗英の言う通り、僕には友達がいない。生きてきた環境は変わらない。なにせ、家も隣同士で、保育園から高校に至るまで、ずっと同じだ。にも関わらず、紗英と僕の間にはこれだけの差がある。神様は公平だというが、ならばこの差は僕が怠けた証拠だとでも言うのだろうか。いや、それよりも、神様は女の子にだけ優しいのだろう。レディースデーがあっても、メンズデーがないように。


「そんな偏屈なことばっかり考えてるから友達ができないんだよ」


 紗英が僕の顔を見上げながら言った。その顔は少し膨れている。


「そんなことないよ。ってか、偏屈って言うな」

「でも、どうせ神様は不公平で、女の子にだけ優しいとか考えてたんでしょ?」


 図星だった。思わずうろたえてしまう。

 紗英は更に畳み掛けるように。


「そういうのを偏屈って言うんだよ。もうちょっとオープンにさ、素直に考えればいいのに」


 訳知り顔で言う。

 きっと、紗英は僕の考え方を分かった上で助言してくれている。なにせ幼馴染みだ。生まれた頃から一緒なわけだから、僕の考え方なんて十二分に熟知している。でも、分かったところでこの性格が変わるわけでもなく。


「仕方ないだろ、性分なんだから」


 自分でも分かるほどに、捻くれた答えを返してしまう。

 もはや病気だな……。この性分のおかげで、老後は孤独死だろうな、きっと。


「ほらまた、そうやって考え込む」


 さっきよりも一層頬を膨らませて、紗英が僕を睨み上げる。


「別に考え込んでなんか「ここ、皺寄ってる」」


 僕の言葉を遮って、紗英が人差し指で眉間を突いてきた。


「いてっ」


 思わず怯んで、眉間を押さえる。すると確かに、そこには深い皺が幾重にも刻まれていた。そのままほぐすように指先で揉む。


「光樹のことは顔見れば分かるよ。何年一緒にいると思ってるのさ」


 先に立って歩きながら、紗英が振り返る。多少の呆れを含んではいるものの、本気で思ってくれていることが伝わるような、微かな笑みを湛えて。それは夕暮れ時のまどろみのような、心地良い笑みだった。


「ふん」


 僕はその笑みから目を逸らすように空を見上げる。きっと、こういう態度が偏屈だって言われる由縁なんだろうな。そう思う空の色はようやく青さを持ち出したばかりで、まだ暖かさを持つには少しの時間を必要としそうだった。

 すると、紗英がくすくすと笑う声が聞こえてきた。


「本当に、素直じゃないよね。名前だけ聞くと純真そのものなのに」

「名前は関係ないだろっ」


 僕は空から目を離して、紗英を睨み付けた。

 僕は自分の名前が嫌いだ。「ミツキ」なんて音だけで見ると女の子みたいだし、「光樹」なんて漢字で書けば正しく読まれない上に、活発で明るいイメージを抱かれがちだからだ。だから。


「あれほど名前はネタにすんなって言ってんのにっ」

「はいはい、いいから笑いなって。いつまでそんな怖い顔してるつもり?」


 そう被せるように言った後、紗英が僕に向けて両手を伸ばしてきた。


 直後、それが来た。


 初めは、視界の上部になにかがちらついた気がしただけだった。そのときはさして気にもしなかったし、僕の頬を摘もうと伸ばされた紗英の腕を迎え撃つことに必死だった。でも。


「……えっ」


 僕に向かって伸びた紗英の腕に、一滴の赤い液体が零れ落ちた。

頭上から降り注いだ液体に釣られるように、僕の面は真上に引き上げられる。

 その視線の行く先で、ふたつの人影を目にした。

 ひとつはまだ冷たさを残す空を背に、マンションの屋上からこちらを見下ろす人影。

 そして、もうひとつは僕と紗英の間に向けて落下してくる人の背中だった。


「さ――え――」


 搾り出した声は、声になりきらずに霧散した。見上げた僕の顔に、再度液体が降り掛かる。

 視界の隅に、紗英の笑顔が映った。なにも気付かずに、両腕を僕の頬へと伸ばしている。

 このままでは、当たる。

そう確信した僕は、紗英の腕を払おうとしていた腕に、体重を乗せた。紗英に体当たりをかますようにして飛び込んで、勢いをそのままに膝に力を込める。少しでも距離を稼ぐ。そう思って、紗英を腕の中に抱え込んだまま、勢い任せに飛んだ。


 直後。


 紗英を抱えた腕に擦過の痛みを感じて。

 背後に、粘り気と水分を持つ物体が、地面へ叩き付けられる音を聞いた。


「ちょっと、いきなりなにするのっ」


 紗英が僕の胸を突いて抗議する。それは当然だろう。いきなり路上で押し倒したんだ。文句を言われても無理はない。でも僕は、それを無視して。


「見るな」


 そう、一言だけ発した。


「え」


 しかし、それはすでに手遅れで。紗英の両目は、揺らぐことなく僕の背後に注視していた。


「ひっ」


 紗英の喉が、一瞬引き攣る。一拍の間を置いた後、真冬の通学路には場違いな、鋭い悲鳴が木霊した。

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