サバンナの掟

鏡水 敬尋

サバンナの掟

 サバンナ――そこは、強者が弱者を殺す、力が支配する世界。人間が、エアコンの利いた快適な部屋で、ポテトチップスを頬張り、必要の無いカロリーを無駄に摂取している間にも、サバンナでは、毎秒、命のやりとりが行われている。


 土煙を巻き上げて、4頭の雌ライオンが、その体躯を躍動させ、風のように走っている。その目線の先には、2頭のガゼル。そのガゼルは、どうやら、母と、その子どもらしい。

 雌ライオンたちは、母ガゼルに狙いを付けたらしく、絶妙なフォーメーションで追い詰めていく。

 1頭の雌ライオンが、左から母ガゼルに飛びかかる。すんでのところで、母ガゼルは、それを右に躱す。しかし、躱したその先には、タイミングを合わせたように、もう1頭の雌ライオンが飛びかかってきていた。無慈悲な爪牙が、その首を目掛けて襲いかかる。すれすれのところで、母ガゼルを身体を低くし、その攻撃を躱した。しかし、流れ爪が、子ガゼルの皮を切り裂き、鮮血が流れ出る。

「ストーップ! ストップだ!」

 叫びながら、猛然と雄ガゼルが駆け寄ってきた。それを見て、雌ライオン達の動きが止まる。子ガゼルが、状況に似つかわしくない、無邪気な声を出す。

「うわー、血が出たー」

 雄ガゼルは、1頭の雌ライオンに、額がくっつきそうなほど近付き、怒気を孕んだ声で言った。

「何やってんだ? 子どもには手を出さない約束だろ?」

 言われた雌ライオンは、耳を後ろに伏せながら応える。

「グルルルル……」

「いや、グルルルルじゃなくてさ。子どもには手を出さない約束だろって言ってるの」

「グルルルル……」

「お前じゃ話にならねえな。頭はどいつだ?」

 雄ガゼルが、そう言いながら、他の3頭に視線をやると、右耳の欠けた雌ライオンが、前に出てきて言った。

「私が、頭のリサさ」

「俺は、ここらのガゼルのボスで、トムってんだ。この落とし前、どう付けてくれるんだ?」

「すまなかったね。ちょいと、流れ爪が当たっちまって」

「そんな言い訳は、どうでも良いんだ。今回は、そこの雌ガゼル1匹だけって約束だったろ」

 そう言ってから、トムは母ガゼルに向けて言った。

「お前も、逃げんなよ。お前が逃げるから、子どもが危険な目に遭うんだろうが」

 伏し目がちに、母ガゼルが反論する。

「逃げるなって言われても、逃げないと死んじゃうし」

「お前は、群の掟を破って、死刑になってここへ来てるんだよ。おとなしく死ねよ」

「いや、まあそうなんだけど、黙って喰われるってのは、ちょっとねえ。逃げた方が、ライオンさん達も雰囲気出るでしょ?」

 水を向けられたリサが応える。

「まあ、私らも、モチベーションが上がるってもんだね」

「お前らのモチベーションなんてどうでも良いんだよ」

 トムが、苛つきながら言った。

 肉食動物は、罪を犯した草食動物を殺し、その肉を喰らう。肉食動物は、ここサバンナにおいて、死刑執行人なのだ。これが、サバンナの掟である。

 逃げ回る死刑囚と、追うのを楽しむ死刑執行人に、トムは説教を続けた。

「大体さ、お前らは、死刑執行人なんだから、粛々と仕事をしてくれれば良いわけ。そんな、何頭もで、よってたかって、エキサイティングに追いかける必要無いだろ」

「そうは言われても、これが私達の仕事の流儀なんでね。ちゃんと、死刑囚が苦しまないように、殺る時には首を狙って、短時間で息の根を止めるようにしてるよ」

「それが、なんでこんなことになるんだよ」

「そのガゼルが、避けるからさ」

 再び、矛先は母ガゼルに向けられる。

「お前、なんで避けるの?」

「そりゃ避けるでしょ。首を狙われるの、分かってるし」

「そのせいで、子どもが怪我してるじゃねえか」

 トムは、鼻先で子ガゼルを指した。子ガゼルは、無邪気な声を上げる。

「見てー。血がダラダラなのー」

 それを見て、リサが声をかける。

「ごめんよ、坊や。痛くなかったかい?」

「痛くは無いけど、血がダラダラなのー」

 リサは、子ガゼルに近付くと、顔を斜めにして、口を開こうとした。それを見て、トムが慌てて、間に割って入った。

「おい、喰うなよ」

「喰わないよ。傷を舐めてやろうとしただけさ」

「まったく、油断も隙もねえ。言っておくが、お前らの命は、俺らに握られてるってことを忘れんなよ」

 黙り込むリサに、トムが続ける。

「分かってるだろ? 俺らガゼルは、ここいらだけでも、数百体が群れを成してる。そいつらが全員で、お前らを襲ったら、ひとたまりもねえぞ。数はこっちが上なんだ。百獣の王なんて呼ばれてても、所詮お前らは、ガゼルにすら勝てねえんだ。ただただ、死刑執行人としての職務だけこなしてりゃ良いんだよ」

「……分かってるさ」

 そう言いながらも、鷹揚さを崩さないリサに、トムは言う。

「ファントの旦那、呼ぶか?」

「え」

 リサの顔色が変わる。ファントとは、ここいら一帯を仕切っている、ボスゾウの名前だ。

「お前がそうそう態度なら、ファントの旦那に出てきてもらって、話付けてもらっても良いんだぜ」

「ちょ、ちょっと待っとくれよ。ファントに出てこられたら、話がこじれるだけさ」

「じゃあ、どうしてくれるんだい?」

 リサは、地面に伏せながら言った。

「この通りだ。許しておくれ」

 土下座するリサを見て、トムは舌打ちをしてから言った。

「これからは、気をつけろよ」

「……ああ、すまなかったね」

 トムは、子ガゼルの方に向き直り、言った。

「おう、帰るぞ」

 トムが走り出すと、母子ガゼルは、その後ろに付いて走った。それを感じ取ったトムは、急ブレーキをかけ、後ろを振り返って言った。

「何、ついてきてんだ。お前は、残るに決まってんだろ」

「ですよね」

 母ガゼルを残し、2頭のガゼルは去っていった。

 リサは、母ガゼルのほうへと視線を向けて言った。

「それじゃ、改めて死刑執行と行こうかね」

 いつの間にか、4頭の雌ライオンは、母ガゼルを取り囲んでいた。

「あーれー」

 雌ライオン達は、どうにか職務を全うした。


 仲間の群へと戻ってきたトムに、長老ガゼルが声をかけた。

「おお、トム。帰ったか」

「ああ」

 あるガゼルが、子ガゼルを見て声を上げた。

「あら! 怪我してるじゃないの!」

「うん。血がボタボタなのー」

「ライオンのやつらが、ミスったんだよ。ったく」

 年老いた雌ガゼルが、子ガゼルを群の奥へと連れていくのを見ながら、トムは長老に言った。

「死刑は完了だ」

「ご苦労だった」

「しかし、あの女。まさか子どもを連れていくとはな。子どもまで道連れにするつもりだったのか」

「そこまで考えてはおらんじゃろ。ただ、子どもと離れたくなかっただけじゃよ。我らガゼルの知能など、そんなもんじゃ。所詮、ウシ科じゃからな。わしも最近では、意識がモーろうとして、モーろくが止まらんわい。うししししし」

 長老が顔を引き締めて続ける。

「それはそうと、明日、人間が来るらしい」

 トムは、嫌悪感を露わにした。

「何! またか。一体、何だって、人間どもは、頻繁にサバンナに来やがるんだ。また、俺ら草食動物が、肉食動物に喰われている様を撮りながら、『ワオ!』とか、『これが厳しい自然の掟だ』とか、『弱肉強食の世界だ』とか、抜かしやがるんだろ。あいつらが見てるのは、本当のサバンナじゃない。祭りだ。本当に弱肉強食だったら、俺らがライオンを食ってるわ」

 憤懣やるかたない様子のトムを、長老が宥める。

「まあ、そう言うな。人間もな、バカなんじゃ。所詮、猿じゃからな。しかし、人間が来るとなると……」

「分かってる」


 翌日の昼、3人の人間が、オープンカーのジープに乗ってやってきた。トムは、ジープから一定の距離を保つよう、群を誘導する。しかし、数頭のガゼルが、誘導を見誤り、ジープの近くに取り残されてしまった。

 トムが、それに気付いた時には、もう遅かった。風下から、4頭の雌ライオン――リサの一団が、孤立したガゼル達を狙っていた。

 人間達は、ここぞとばかりにカメラを回し始めた。

 完璧なフォーメーションで、リサ達は、数頭のガゼル全てを狩ることに成功すると、柔らかなガゼルの腹を切り裂き、中から臓物を引きずり出して、ガムのようにくちゃくちゃと咀嚼した。

 その様を見て、金髪の運転手が言った。

「ワオ!」

 白髪の博士が、それに続いた。

「これが厳しい自然の掟だ。我々は、ガゼルを助けてはいけない。それは、自然の摂理に反する行為だ」

 赤毛の女性が、目を細めて語った。

「サバンナは、弱肉強食の世界ですものね」

 そんな人間達を横目に見ながら、リサ以外の3頭は、溜飲を下げていた。

「ひょー! 人間祭りだー!」

「人間の前では、私らは自由だからね」

「元々、タイマンなら負けないんだ。ガゼルごときが調子に乗りやがって」

 サバンナでは、人間が来ると、人間祭りが開催される。これもまた、サバンナの掟であった。人間祭りとは、死刑執行人である肉食動物達が、執行対象を選ばずに、存分に職権を振るうことができる、言わば喰い放題バイキングの祭りである。草食動物からすれば、喰われ放題バイキングである。そして、人間祭りの期間中に、いくら仲間が喰い殺されたとしても、草食動物側は、それに関して文句を言うことはできないのだ。

 リサは少しだけ、嗜めるように言った。

「調子に乗り過ぎは良くないよ。本当に、ガゼル達が決起したら、私達はボロ雑巾のようになって殺されちまう。げぷ」

 それに、別の1頭が応える。

「確かに、全ガゼルが決起したらそうなるかも知れないけど、死を恐れずに私らライオンに向かって来られるガゼルが、果たしてどれほど居るかね」

「だからこそ、必要以上に刺激しないほうが良いってことさ。怒りは恐れを忘れさせるからね。げぷ」

 大きなげっぷをすると、リサは、腹を見せて転がり、撮影している人間達へのサービスをした。人間達に頻繁に来てもらえれば、それだけ人間祭りが開催されるということであり、それが目的で、肉食動物達は、でかい猫さながらの可愛い仕草で、人間達にサービスをするのである。


 ライオン達が去り、人間達のジープが走り去ったのを確認して、トムは、先ほど喰われたばかりの、仲間の亡骸のもとへ走った。

「くそ! 内臓だけ喰っていきやがって」

 ガゼルの屍体は、みな、腹が割かれており、中が空洞になっていた。反面、四肢や首などの肉は、あらかた残っていた。

 匂いを嗅ぎ付けたハゲワシが、数羽、舞い降りてきて、屍体の腹に首を突っ込んだ。体腔の中に、わずかに残っていた内臓の切れ端をついばみ、ハゲワシ達は銘々につぶやく。

「うまい」

「うまい」

 トムは、仲間の屍体が喰われる忌避感から、無駄と分かりつつも言った。

「おい、喰うなよ」

 ハゲワシは応えた。

「うまい」


「くそ! このままじゃ済まさねえぞ!」

 激昂するトムを、長老が諭す。

「落ち着くんじゃ。これも、サバンナの掟じゃ。モーどうしようもないことじゃ」

「いちいち、くだらない牛ネタを入れてくんなよ!」

「くだらないとは何じゃ。お主を落ち着かせようと、わしも気を遣って、モー大変なんじゃぞ」

「ファントの旦那と話をしてくる」

「待て! あんな化け物を引っ張り出して、何をするつもりじゃ。あいつらが暴れだしたら、わしらじゃ、モーどうにもならんぞ」

「俺は、モー我慢ならんのだ」


 翌日も、人間達の乗ったオープンカーのジープがやってきた。本日も、人間祭りの開催と、相成ったわけである。

 昨日と同様、トムは群を誘導し、ジープと一定の距離を保った。昨日と同様、群から数頭のガゼルが離れ、孤立した。しかし、昨日とは違って、リサはお腹がいっぱいだったので、ガゼルたちを襲おうとは思わなかった。だが、リサ以外の3頭が、このように言い出した。

「大して腹は減っていないが、せっかくの機会だ。殺ってしまおうか」

「せっかくの人間まつりだ。殺すだけ殺してしまおう」

「日頃の屈辱、今こそ晴らしてくれる」

 そう言うと、3頭は、リサが止めるのも聞かずに、その身を躍らせて、ガゼル達に襲いかかった。

 人間達は、今日も必死にカメラを回している。

「ワオ!」

「ほぼ、昨日と同じ構図だな」

「やっぱりガゼルが可哀想」

 ガゼル達は、昨日と同様に、腹を切り裂かれ、臓物を引きずり出された。

 ふと、人間達が悲鳴を上げた。

「ぎゃ!」

「な、何!」

 人間達が、撮影に夢中になっている間に、ファントが、音もなく、ジープのすぐ間近まで来ていた。

 金髪が叫ぶ。

「ゾウが! いつの間に、こんなに近くに!」

 女性が喚く。

「ど、どうしましょう」

 博士は説明する。

「落ち着け。耳を伏せている間は、攻撃の意志は無いはずだ」

 言い終わらない内に、ファントの耳が、横に大きく広がり、パオー、と大音声が鳴り響いた。

「攻撃の意志があるぞー!」

「見れば分かる!」

「すぐに車を出して!」

 しかし、金髪が車を出すよりも早く、ファントはジープの横腹に体当りし、いとも簡単に横倒しにしてしまった。人間達は、車外へと投げ出されてしまった。

 恐慌状態になった女性が1人、走り出した。それを見た1頭の雌ライオンが、死刑執行人の本能に突き動かされて、女性に飛びかかった。

 女性の右肩と左腹は、ライオンの爪にやすやすと切り裂かれ、首には、ライオンの牙が深々と突き刺さった。

 金髪と博士は、ジープの近くでその光景を見ていた。

「ワオ! 助けなきゃ」

「助けてはいけない。助けるのは、自然の摂理に反する行為だ」

「でも、助けないのは、人道に反する行為じゃないか」

「自然に背くか、人をやめるか。あちらを立てればこちらが立たず、だな」

 そんなことを言っている間に、女性の首は不自然な方向へと曲げられてしまい、口から噴水のように血を噴き出して絶命した。

 ライオンは、はっとした。殺すつもりは無かった。いつもの癖で、つい、首を狙って仕留めてしまったのだ。しかし、まあ良いかと思い、ライオンは女性の首を、さらに後方に曲げた。

 いつ、いかなる瞬間でも、人間は殺して良い。それもまたサバンナの掟であった。

 首のひん曲がった女性を見て、2人は言い合った。

「ああ、あれはもう駄目だな。シャガールの『誕生日』のようになってしまった」

「『誕生日』のように死ぬとは、なかなか洒落が利いている」

「そんなことを言ってる場合じゃあない。我々はどうするべきだろう」

「彼女のように走り出せば、シャガール作品にされるのがオチだ。ここに留まって様子を見るのが良かろう」

 そう言っている2人の背後にファントが迫り、8トンはあろうかというその体重を、博士の背中に乗せた。 

 バチュン! という気持ちの良い音を聞いた、金髪が言った。

「ああ、博士はピカソ作品にされてしまった」

 ファントは続けて、その場で両の前足を浮かせて、後ろ足だけで直立するような体勢を取ってから、重力に任せて、前足をどすん、と落とした。

 金髪は、ダリ作品となった。

 人間達が全滅したのを確認したトムが、群に向かって叫んだ。

「人間祭りは終わりだ!」

 堰を切ったように、ガゼルの群は、リサ達へ向かって走り出した。

 それを察知したリサが吼えた。

「まずい! あいつら、私達を皆殺しにする気だよ!」

 雌ライオン達は、逃亡しようと走り出したが、その方向には、ゾウの群が待ち構えていた。

「ち! どうやら本気らしいね」

 ゾウに立ち向かうよりはと、雌ライオン達は、ガゼルの群に向かって突進していった。それを追うように、ゾウの群も走り出す。

 その様子を、バオバブの木の上から見物していたサバンナモンキーが、囃し立てた。

「おい、ファント。お前、ガゼル達に頼まれて、あのライオン達を皆殺しにする気かい?」

「喋るしか能が無い猿は引っ込んどれ」

「そのでかい図体しか能が無いくせに、言うじゃないか。一体、雌ガゼル何頭で、この依頼を受けたんだい。お前は、女日照りだからねえ」

 この発言に、キレたファントは、その巨体を、バオバブの木へ向けて走らせ始めた。その結果、ファントは、ライオンを追いかけて走っていたゾウの群の横腹に突っ込んでしまうこととなった。1頭のゾウが、ファントの牙で腹を抉られて倒れた。倒れたゾウに足を取られ、後続のゾウ達も、転び、倒れ、ゾウの群は滅茶苦茶になった。

 興奮したゾウの群は、ガゼルもライオンも関係無しに暴れまわり、辺り一帯は大混乱に陥った。

 土煙が、もうもうと立ち込め、1メートル先もろくに見えないような視界不良の中、ガゼルはでたらめに何かに突進し、ライオンは手当たり次第に何かに噛み付き、ゾウは闇雲に暴れまわった。無数の足音、悲鳴、激突音、破裂音が飛び交い、まさしくその場は、戦場となった。

 10分後。辺りは静けさを取り戻していた。落ち着きを取り戻したゾウの群が、ゆっくりと去っていき、土煙が晴れると、そこにはおびただしい数の、動物の屍体が転がっており、そのほとんどは、ガゼルであった。

 激戦の疲労から、トムは口で息をしながら、辺り一面に転がる屍体を見て、呆然とした。あれほど居た仲間が、ほぼ全滅だ。

「だから言ったろ。ファントなんか連れてくるなって」

 後ろから声をかけられ、トムが振り返ると、血まみれになったリサが、やはり口で息をしながら横たわっていた。

「お前、生きてたのか」

「お互いに、運だけは良いようだね。しかしまあ、派手にやってくれたもんだね。私の仲間は全滅だよ」

 リサが目をやったほうを見ると、比較的近い場所に、3頭のライオンの屍体が有った。

「俺の群も、似たようなもんだ」

「ファントが出てくると、いつもこうだよ。自分以上の力を持ったやつに頼るってのが、どういうことなのか。良い勉強になったろ」

「以前にも、同じようなことが有ったのか?」

「私の右耳は、その時に欠けたのさ」

 そう言って笑ったリサは、今や両耳が欠けていた。

 次の瞬間、ぶるぶると震えていた、トムの両足はガクッと折れ、彼は崩れ落ちるように座り込んだ。

「思ったより、体力を消耗してたみてえだ。しばらく、動けそうにねえ」

 そう言ってから、トムは、リサの目を見て言った。

「俺を殺すか?」

「あいにく、今は腹が減ってなくてね」

 匂いを嗅ぎ付けたハゲワシが大量に舞い降りて来て、そこいらの屍体をつつき始めた。

「うまい」

「うまい」

 トムとリサは、咄嗟に言ってしまった。

「おい、喰うなよ」

 ハゲワシは応えた。

「うまい」

 リサは、傷だらけの身体を無理やり起こした。

「それじゃあ、また会おう」

 そう言って踵を返し、歩き出した。遠ざかろうとするリサに、トムが声をかける。

「俺は、また群を作る」

 歩を止めて、リサは、振り向かずに応えた。

「そうしておくれ。私らが喰うものが無くなっちまうからね」

「群がでかくなったら、その時は、ガゼルの力だけで、お前らを襲うかも知れんぞ」

「構わんさ」

「……悪かったな」

「何を謝ることがあるんだい。お互い、サバンナの掟の下で、正々堂々と生きただけだろう」

 そう言って去るリサの背中は、雄ライオンのそれよりも雄々しく見えた。

 リサが歩を進めると、バオバブの木の下で、ファントが額から血を流して倒れていた。どうやら、激突のし過ぎで、額を割って気を失っているらしい。木の上では、サバンナモンキーが腹を抱えて笑っていた。

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サバンナの掟 鏡水 敬尋 @Yukihiro_K

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