46-2:白の世界

 全知全能の神が描いた筋書きには、俺が神を見限ることも考慮されていたのだろうか?

 分からない……。神は一体何を望んでいる?

 それを知れば、俺は、神を……父上を再び信頼できるのだろうか?



 神に対する不信は、いまだに消えていない。それにもかかわらず、神を信じたいという感情が、ふとした瞬間に頭をもたげる。

 これもまた、俺に刻まれた神の『呪縛』なのだろうか? 自分の本心が今どこにあるのか、判然としなかった。


 思考の海に沈んでいた俺の耳に、するりと声が入ってくる。


「ねぇ、ミカエル」


 反射的に顔を上げた俺は、こちらを見つめるサタンと視線がかち合った。その途端、不思議な感覚に陥る。

 言葉遣いも容姿もまったく異なるというのに、目の前にいるサタンと神の姿がなぜか重なって見えたのだ。

 だが俺は、そう感じたことをすぐに後悔する。


 サタンは俺を見たまま、神妙な面持ちで首をかしげた。


「僕、思うんだけどさ、彼って、悪魔以上にカギャクテキじゃない?」


「……は?」


 言葉の意味がすぐに理解できず、俺は脳内で繰り返す。



 カギャクテキ? 加虐のことか? つまり、神はむごい仕打ちを与えている……と?



「何を言っている?」


 うなるような低い声を発した俺は、サタンをにらみつけた。

 当のサタンは、刺すような目つきの俺から空虚な白の空へと視線を移し、独り言のように続けた。


「そんな彼を盲目的に敬う君たちは、この世で一番の被虐者となるのか……」


「いい加減にしろっ!」


 そう怒鳴った俺は大きく一歩前へ出て、サタンの顔を目掛けて拳を振るう。

 だがサタンは、一瞬にしてその場から姿を消した。目標を失った俺の拳は、ヒュンというするどい音とともにくうを切る。直後、背後で何かがストンと降り立つ音がした。

 確かめなくても分かる。サタンが俺の後ろへ移動したのだ。

 態勢が崩れた俺は、左足に体重を乗せて体を捻る。今度は、左の拳でサタンの顔面を狙った。


 バシッ


 鈍い音が響く。

 俺の拳は、満面の笑みを浮かべたサタンの右手に捕らえられていた。それでも俺は怒りに任せ、さらに拳を押し込もうとした。

 静かな攻防。互いの手が、上下左右にガクガクとうごめいた。


「なかなかに良い一撃だね。身のこなしも軽やかだ」


 嬉しそうなサタンの表情が、俺を一層苛立たせる。


 たとえ俺の力が万全の状態でも、サタンの力はそれをはるかに上回った。

 対峙たいじして実感する、埋まることのない力量差。ましてや魔力の使えない今の俺では、サタンの足元にすら手が届かない。

 それでも俺は、脳裏に映る天使弟妹たちのことを思うと、沸き上がる憤りが止まらなかった。


 怒りに満ちた俺の拳を受け止めたまま、サタンは笑みを崩すことなく再び首を傾げる。


「不思議だね? なぜそんなに怒るの? 君だって気づいていたはずだよ? 全知全能の神は、君の苦悩を知っていたことを。君だけじゃない、ほかの子たちだってそう。天界ヘブンの子どもたちは、皆誰しもが傷つき苦しんでいた。それなのに、彼は手を差し伸べることもせず、一番高いところから見ているだけ。そして君たちは、そんな彼の行為を正当化するために、己の中で理由を作り上げ、彼に従い続けている」


 矢継ぎ早に話し終えたサタンは、『これでも違うと言えるのか?』と主張するような顔で俺を見つめた。


「……」


 否定したいのに、言葉が出ない。隠し続けていた俺の闇を、サタンが代弁しているような錯覚に陥る。

 その場で固まっている俺を見て、サタンは頭を左右に振りながら、声を立てて笑った。


「アッハッハッハ! ダメだよ、ミカエル。な悪魔の前で、簡単に心をさらけ出しちゃ」


「なっ……」


 俺の拳を捕らえた手をゆっくりと下ろしたサタンは、相好を崩して続ける。


「悪魔はね、相手の奥底に秘めた闇を見つけ出すのが得意なんだよ。そしてその闇を、さも真実であるかのような口ぶりで、相手に語りかけるんだ。それが、悪魔の常套じょうとう手段なのさ」


「……」


 楽し気なサタンは、俺をのぞき込むように首をかたむけた。


「ともあれ、自分の隠し事を、表に出された気分はどうだい?」


「……最悪だ」


 不快な表情の俺を見たサタンは、ケタケタと笑う。


「じゃぁ……そうだな、こう言い換えたらどう? 君はやっと気づいたんだ。神に依存してはならないことを。己の意思を持って、考え続けていかなきゃならない。神がなぜ、手を差し伸べないのか。神がなぜ、こんな世界を創ったのかを」


 俺は眉をひそめたまま、サタンの言葉を思案した。



 確かに、神の不作為には何らかの意図を感じる。俺は、その神から距離を置き、見極めなければならない。世界の未来の行く末と俺自身の存在意義を……。



 そんな風に思いをはせていると、サタンが深いため息をついた。


「だから、ダメだって。僕の言葉を鵜呑うのみにしちゃ。悪魔はね、良くも悪くも、君が欲する言葉を与える。そうやって心の隙間に入り込んで、相手を徐々に支配するんだ。最高位天使がこんなことじゃ、僕、本当に心配になってきちゃうなぁ……」


「……」


 言葉とは裏腹に、サタンはニヤリと笑う。それが余計に、俺のかんに障った。


「ふざけるな! おまえは、俺で一体何がしたいんだよっ!」


 すると、サタンのおどけた笑みがピタリと止み、背筋がゾクリとするほどの冷淡なまなざしで俺を見た。


「悪魔の本質を真に理解しなければ、この先、君は何度でも闇に取り込まれる。それでは、こちらが困るのだ」


「え……?」


 口調がガラリと変わったサタンに、俺はうろたえた。言葉が喉の奥に引っ掛かり、うまく出てこない。

 小さなため息をついたサタンは、凍りついた場の空気を溶かすように微笑ほほえんだ。


「君は……悪魔あきれるほど慈愛に満ちている……満ち過ぎている。だから、君は選ばれなかった。いや、選べなかった……。君は役目を果たせないと、最初から分かっていたから」


 最後のほうは、サタンの目に悲哀の色が漂っていた。


「何を……言っている?」


「ミカエル、君はもうすべてを知るべきだ」


 今までにないほどの真剣なまなざしで、サタンがこちらを見つめている。

 悪魔の言葉を鵜呑みにするなと言った矢先に、真実を語るだと? 俺は、この矛盾に耳を傾けて良いものか迷った。


 不審な表情で見つめ返す俺に、サタンは続ける。


「君だって知りたかったんだろ? ルシフェルがなぜ、彼を……君をも裏切ったのか。彼がなぜ、あの子の裏切りを見過ごしたのか。なぜ……だったのか」


「……」


 俺は目を見開いた。


 サタンは自ら言った。悪魔は相手の闇を見つけ、欲する言葉を与え、支配すると。これも、俺を支配するための餌に過ぎない。

 頭では分かっていた。だが……、サタンの言葉は俺の心をつかんで離さなかった。

 それはまるで、神との対話を想起させる。神の言葉もまた、相手の心を引き付けた。


 ルシフェルを地獄ゲヘナへ堕とした後悔と絶望を置き去りにしたこの白の空間が、俺の判断を狂わせているのだろうか?

 それともこれが、天使を凌駕りょうがするサタンの力なのだろうか?

 だがそんなことは、もうどうでもよかった。



 真実が知りたい。



 サタンは恐ろしいほど鮮やかに、俺の心に入り込んでしまった――

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