28-2:来訪

 ゆらゆらと揺れるランプの灯りを背に、深紫のマントをまとったマモンが立っていた。

 黒ずんだ鉄格子越しに、彼の姿を見たルシファーの声色が一段低くなる。


「何の用だ? マモン」


 その一言で場の空気がガラリと変わった。マモンは肩をすくめる。


「母上が心配で、様子を見に伺ったのですよ。私もあなたの息子ですので」


 アジダハーカが三頭の瞳でマモンをにらみつけた。


「一体、誰のせいでっっ」


 しかし、マモンは平然と首をかしげる。


「私のせいだと? ご冗談を。母上は、地獄ゲヘナにもひた隠しにしていた無垢の子を、天界ヘブンに奪われてしまったのですよ? こちらでお過ごしになっていることに、むしろ感謝していただきたいくらいです」


「くっ……」


 何も言い返せないアジダハーカは、ギリリと歯をきしませた。

 そこへルシファーが割って入るように口を開く。


「で、一体何の用? 様子を見に来ただけではないのだろう?」


 先ほどと同じ質問の端々に、ルシファーの苛立ちを感じ取ったマモンは満足そうな笑顔を見せた。


「そうですねぇ……。実は、ご報告に参りました」


「報告だと?」


 ルシファーは眉をひそめた。マモンはうなずく。


「えぇ。以前より母上が進めていた計画。あれを実行に移そうかと」


「母上の……計画?」


 そう言ったアジダハーカは、チラリとルシファーを見た。ルシファーはわずかに顔をしかめ、マモンを見据えている。

 マモンはルシファーからアジダハーカのほうへと視線を移した。


「兄上は長らく牢獄ここにいらっしゃるので、ご存じないのも当然です。母上はね、人間界でずっとをまいておられたのです」


「何の……」


「母上は本当にヒトをよく理解しておいでだ。種をまき、芽吹くのをじっと待っていた。ヒトの心の奥底にある種が一度芽吹けば、あとは放っておいても転がり落ちるだけですものね」


 抽象的なマモンの言い方に、アジダハーカが苛立つ。


「だから、一体何の話をしているんだ!」


 アジダハーカは竜のうなり声をあげた。その衝撃波が周囲の空気を波のように震わす。

 マモンは顔を背け、その空気の波をやり過ごした。天井からパラパラと落ちる砂ぼこりが落ち着くと、再びアジダハーカに顔を向け口角だけをゆがませる。


「世界大戦……ですよ、兄上。人間界は、近々焦土と化すのです」


「世界大戦? 一体どうやって?」


 アジダハーカは足元にいるルシファーを再び見た。無表情の彼女からは、その胸の内は読み取れない。

 マモンもルシファーをチラリと見てから口を開く。


「口火を切るのは、小国の次期王となる王子とその妃。彼らの死により、人間界は戦火に飲み込まれていくのです」


「たったそれだけで?」


 困惑気味のアジダハーカにマモンは頷く。


「そう、たったそれだけ。そして、その戦火を全土へ広げるために、母上はずっと『恐怖』という種をまいてきたのです」


「恐怖……」


 アジダハーカがポツリとつぶやいた。マモンは続ける。


「後継の王子夫妻が暗殺され、皆が首謀者を詮索するでしょう。当然、真っ先に疑われるのは敵対国です。ただ確証はない。その渦中、敵対国の要人が殺されたら? 互いの国民はこう思うでしょう。『やられた分だけやり返せ。これ以上やられる前にやってしまえ』と。そうして局地で紛争が起き始める。これにより、隣国は開戦の口実を手に入れるのです」


「……」


「ヒトはいつもおびえていた。自国へ侵略する時機を、隣国はずっとうかがっているのではないかと。それが、母上がヒトに植え付けていた『恐怖』です。こうして、種は芽吹き、伝染病のように人間界全土へ広がっていくのです」


 すべてを聞き終えたルシファーがやっと口を開いた。


「だが人間界の混乱を、天界ヘブンが黙って見ているはずがない。それに、あちらには無垢の子がいる」


 地獄ゲヘナ天界ヘブンの勢力に甚大な影響を及ぼす『無垢の子』。その子がもし、天使の手により『神の子』に転生すれば、悪魔は人間界を追われることになる。


「ご安心ください。承知しておりますとも」


 マモンはニコリと笑ってルシファーを見た。


の神の子の降臨は、欲望に駆らたわれらが人間界に介入しすぎたからです。ですが、今回地獄ゲヘナが介入するのは最初だけ。あとは労せずとも、ヒト自らが転がり落ちていきます」


「そんなにうまくいくものか」


 ぼそりと言うアジダハーカに、マモンの視線が移る。


「ヒトはね、兄上、破滅へ向かっていると知りながらも、その歩みを止められない愚かな生き物なのですよ。われらは、その破滅へ道案内すればよいだけ。どちらの道へ進むかは、ヒトが決めるのです。それが『自由意志のルール』という神が定めた理。そこに天使どもは介入できない」


「自由意志のルール……」


「そうです。天使あいつらは、己の手で自らの首を絞めるのです。悪魔がヒトを操っていない以上、天界ヘブンは神の子を誕生させる理由がない。理由がなければ無垢の子は無垢の子のまま。地獄ゲヘナであれば、理由そのものが必要ないというのに。あそこは、まったく堅苦しい世界です」


 マモンの言葉に、ルシファーはわずかに眉をひそめた。しかし、彼はそれには気づかずに続ける。


「こうしてヒトは、自らの選択により地獄ゲヘナに染まっていく。そしてその魂を、われらは口を開けて待っていればよいだけ。そうですよね? 母上」


 ルシファーは不快そうな表情をした。

 その姿に、マモンは嬉しそうに口角を歪める。


「そうそう、その顔。息子に功労を奪われたあなたが、一体どんな顔をするのか、とても興味がありました」


 その言葉に、アジダハーカがうなり声をあげる。


「マモン! 母上になんてことを!!」


 しかし、マモンはほえるアジダハーカを無視して言う。


「それでは、私はこれで失礼します。今から、を七十二柱に伝えてまいりますゆえに。皆がどのように反応するのか、今からとても楽しみです」


 そう言うと、マモンは来た道を引き返すように歩き始めた。


「……」


 マモンの背を無言で見つめるルシファーは、こぶしを握り締める。


 人間界よりも、天界ヘブンにいるハルのことが気掛かりだった。

 マモンは、神が定めた『自由意志のルール』により、天使が介入できないと思っている。

 だが、熾天使ガブリエルはマモンの予想を裏切るだろう。地獄ゲヘナに染まる人間界を、黙って傍観するような天使ではない。むしろ、無垢の子であるハルを神の子に転生させる絶好のチャンスと捉えるはずだ。そうなれば、ハルの命は格段に危ういものとなる。



 力がこもるルシファーのこぶしに気づいたアジダハーカが、思わずマモンに向かって怒鳴った。


「マモン! 待てっ!!」


 紫色の鱗甲りんこうで覆われた尾を振り上げたアジダハーカは、黒ずんだ鉄格子にたたきつける。


 バァァン!!


 竜の尾を叩きつけられた鉄格子は、突き刺さっていた天井ごと派手な音とともになぎ倒された。

 アジダハーカの尾の勢いは鉄格子を倒すだけでは止まらず、ろうの向かいにある壁をも突き崩す。崩れた箇所から赤銅色の光が入ってきた。


 われに返ったアジダハーカは、慌てて自分の尾を牢内へと引き込む。

 その瞬間、なぎ倒された鉄格子も崩れた壁も、まるで意思があるように動き出し、元の形へとあっという間に戻っていった。


 マモンは何事もなかったかのように振り向くと、目を細める。


「兄上、お気を付けください。確かにこの城は、どんなに壊そうともすぐに元に戻ります。が……、魔力が存分に使えない母上の傷は、すぐに元通りにはなりませんよ?」


 アジダハーカは目を見開くと、慌ててルシファーを見下ろした。

 飛び散った壁のかけらを防いだルシファーの腕は、無数のかすり傷と血がにじんでいる。


「あぁっ母上!!」


「大丈夫よ、アジダハーカ」


 マモンを睨みながらルシファーは言う。しかし彼女の声は、アジダハーカには届かない。

 身を固くして三つの頭を腹に埋めたアジダハーカは、紫色の尾で己の体を打ち付け始めた。


「僕がっ僕が母上を傷つけた! 僕がぁぁぁ」


 バシッバシッと空気を裂く鋭い音が牢内に響く。そのたびに、紫色の鱗甲の欠片が周囲に飛び散った。


「アジダハーカ!!」


 ルシファーの鋭い声に、アジダハーカの尾がピタリと止まる。


「アッハッハッハッハッ」


 マモンは珍しいものを見たと言わんばかりに声を立てて笑うと、その場をゆっくりと立ち去った。

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