26-1:決別

 ラナは生まれたときから、灰色で冷たい離れとその周囲の世界しか知らない。

 それでも高貴な家柄の人間として、読み書きや立ち居振る舞いなど最低限の教養を老婆の使用人から教え込まれた。

 何のためにそれを身に着けるのか、ラナには理解できない。

 だが、この窮屈で退屈な生活を一時的にでも忘れられるのなら、学ぶことはラナにとって苦痛ではなかった。


 ラナが八歳になる頃には、ひと通りの知識と教養を身に着けていた。

 自由に出歩くことは許されなかったが、ラナが望むものは祖父レイモンドが買い与えてくれる。その中でも、とりわけラナを夢中にさせたものが本だった。

 本はラナをまだ見ぬ世界へと連れ出してくれる。閉鎖的な空間しか知らない彼女は、あっという間に本のとりことなった。


 九歳になると、ラナは老婆の使用人の目を盗み、屋敷の園庭へと足を運ぶようになる。

 青々とした園庭の芝生に寝転びながらお気に入りの本を読むのが、ラナの一番の楽しみだった。

 しかし同じ敷地内でも、ラナが絶対に近づかない場所がある。そこは祖父レイモンドと父シリルが住むカーディフ家の母屋。

 シリルには、ラナの母フェリシアとは別にローレンという妻がおり、腹違いの一歳下の弟ディーンとさらに三歳下の妹アイリーンがいた。

 何の制限もなく自由に暮らす腹違いの弟妹ていまい。寄り添いながらそれを見守るシリルとローレン。幸せそうな家族の姿を茂みの陰から見てしまったラナは、自分がひどく惨めに思えた。それ以来、ラナは母屋には近づかないと決めている。



 十二歳になったラナは、冬の寒さが和らぐと連日のように園庭へと足を運んだ。

 ここ数日続いた暖かさで、園庭に植えられたアネモネが今にも開花しそうだったのだ。

 ラナはアネモネが好きだった。

 冬の寒さに当てないと、つぼみができず開花しないアネモネ。自分の境遇と未来を、ラナはこの花に重ねていた。


 この日も灰色の壁に囲まれた離れをそっと抜け出し、ラナは園庭へ続く小道を歩き出す。だが前方から人の気配がしたため、慌てて近くの茂みへと身を隠した。

 ほどなくして、父シリルが姿を現す。

 三十一歳という実年齢よりも若く見えるシリルは、離れの玄関前で立ち止まった。

 くり色の髪を一つに結わえた父の背を、ラナは茂みの中から見つめる。


 不意に、建物の中から歌声が聞こえてきた。母フェリシアの声だった。

 シリルは二階の鉄格子の窓を見上げる。それに釣られてラナも二階を見た。


 少女のように澄んだフェリシアの声が、旋律に乗って鉄格子の窓からこぼれ落ちてくる。

 誰のために歌っているのか、ラナには分かっていた。

 フェリシアは、自分で創り出した虚構のシリルのために愛の歌を歌っているのだ。


 二階を見上げていたシリルは肩でため息をつく。そして、フェリシアの歌を聞き終えることなく、離れの玄関に背を向けた。

 ラナはシリルに見つからないよう、さらに身を深く隠す。

 茂みの前を通り過ぎたシリルは、ラナに気づかずに母屋へと戻っていった。


「はぁ……」


 妙な緊張感から解放されたラナは、安堵あんどから大きく息を吐き出した。


 月に一度ほど、シリルはこんな風に離れへやって来る。だが決して、玄関をノックすることはない。

 父がなぜ、このようなことを繰り返すのか、ラナには分からない。分かりたいとも思わなかった。


 ラナは父が嫌いだった。

 幼い頃、離れを訪れたシリルの手を握ろうとしたことがある。彼の大きな手で、ここから連れ出してほしいと思ったのだ。

 しかし、ラナがシリルの手に触れた途端、けがれた者を見るような目つきで、彼はラナの手を払い除けた。

 シリルのあの表情を、ラナは今でも忘れられない。

 そしていつの頃からか、この牢獄ろうごくに閉じ込められているのは、父のせいだと思い込んでいた。



*  *  *



 秘密の散策を終えたラナは、離れの食堂で一人きりの質素な晩餐ばんさんを取っていた。

 給仕をしていた老婆が、ため息交じりにしわがれ声で言う。


「お嬢様、もう園庭へ行ってはなりません。フェリシア様がお知りになったら、またどんな仕打ちにあうか……」


 この老婆は、祖父レイモンドの若い頃に侍女長を務めていたらしい。

 たかだか老婆と侮っていたラナは驚き、思わず左肩を押さえる。

 ずいぶん前に、外へ出ていたところをフェリシアに見つかり、暖炉の火かき棒で折檻せっかんされた。その傷は今も、赤黒く背中に残っている。


「分かったわ」


 それだけ言うと、ラナは再び食事を取り始めた。



 食事を終えたラナは二階の自室へ向かうため、一階の食堂を出る。

 二階へ上る階段の踊り場を見ると、母フェリシアがぼんやりと立っていた。

 ラナは思わず物陰へと隠れる。


「何を……やっているのかしら……」


 フェリシアの隣には、黒髪の女が亡霊のように寄り添っていた。

 女は見るからにヒトではない。なぜなら、彼女の背には六枚の飛膜の翼があるからだ。以前本で見た『悪魔』と同じ、羽毛のない黒の翼。

 母が悪魔に取りかれていると、ラナは老婆の使用人に助けを求めたことがある。しかし、老婆は女の姿が見えないようで、ラナの話をまともに取り合おうとはしなかった。



 踊り場に立つフェリシアは、表情のない顔で空中に向かって何かをぶつぶつとつぶやいていた。

 ラナは息を潜めて、その様子を見つめる。


 フェリシアは常に幻想の住人だった。

 二十九歳になったというのに、彼女の中では十七歳で時が止まっている。幻想そこでは、ラナは赤ん坊のままで、父シリルと親子三人で幸せに暮らしているらしい。


 取り留めのない想像の中でしか生きられない母。そこへ十二歳のラナが姿を現そうものなら、フェリシアはひどく狂乱する。おそらく、現実へ引き戻されてしまうからだろう。

 そのためラナは、母の視界に入らないよう、自分の存在を悟られないよう、空気のように過ごしていた。


 現実のラナを拒絶する一方で、フェリシアは彼女を手放そうとはしなかった。

 何年か前、祖父レイモンドがラナを里子へ出そうと離れへやって来た。

 この牢獄から出られるのであれば、ラナにとって好都合なことだった。しかしフェリシアは、ラナを抱きしめ「私から奪い取らないで!」と泣き喚き拒絶する。


 ラナは、いまだに分からない。

 自分はなぜ、ここに縛りつけられているのか。

 母にとって『ラナ』とは一体何なのか。



 階段の踊り場でほうけたように立つフェリシアは、栗色の髪の古びたドール人形を抱えていた。フェリシアにとって、その人形こそが『ラナ』だった。


 一向にその場から動こうとしないフェリシアに、ラナはしびれを切らす。

 東側にある使用人用の階段から二階へ上がろうかと考え始めたときだった。


 フェリシアの腕からドール人形がスルリと落ちた。その人形が踊り場から跳ねるように階段を転げ落ちる。

 夢から現実へと意識が戻ったフェリシアは、慌てたように転げた人形へと手を伸ばした。一歩前に出した足がドレスの裾を踏む。体勢を崩したフェリシアの体が、階段へと傾いた。


「危ない!」


 ラナは半ば反射的に飛び出した。

 階段を半分ほど駆け上がり、転がり落ちる寸前の母を受け止める。だが、フェリシアのほうがラナより体が大きかった。

 母の体を支えきれないラナは、フェリシアともつれるように下へと落ちる。


「いたた……。お母様……大丈夫?」


 ラナはゆっくりと上半身を起こした。

 床に手を着くとパキッと音がする。手元を見ると、小さな白い腕が二つに割れて落ちていた。


「腕?」


「あぁっ……あぁっ!!」


 錯乱するようなフェリシアの声に、ラナはビクリとなる。

 娘の上に覆いかぶさり、床に這いつくばったフェリシアは何かを凝視していた。その視線の先をラナも追う。

 そこにはバラバラに砕かれた栗色の髪のドール人形が、床一面に広がっていた……

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