25-4:はじまり
十七歳のフェリシアが産んだ女の子は『ラナ』と名付けられた。
ラナの誕生は離れ専属の老婆の使用人を介し、執事長からシリルへと告げられる。しかし、彼がすぐにフェリシアたちのもとを訪れることはなかった。
それでもフェリシアは、今日こそはシリルがやってくるのではないかと思いながら、日々を過ごす。
こうしてラナが産まれてからひと月が
「シリル、見て。私たちの子供よ。ラナと名付けたの」
扉の前で棒立ちになるシリルに向かって、フェリシアが
ヒヤリとした冷たい空気を
「……」
シリルは視線を床に落としたまま、そこから一歩も動かない。
そんなシリルにしびれを切らしたフェリシアは、彼の手を取ると強引にベッドまで引っ張った。
「ほら、ちゃんと見て。目元がシリルにそっくりなの」
「あ……あぁ……」
ベッドで機嫌よく手足をパタパタと動かすラナを、シリルはチラリと
シリルのぎこちなさに、フェリシアは首を
「何かあったの?」
「……」
「シリル?」
フェリシアに背を向けたまま、シリルは重い口を開いた。
「決まったんだ」
「何が?」
シリルは大きく息を吐き出し、クルリと振り返ってフェリシアを見る。ラナと同じ緑色の瞳をしたシリルは、どこか申し訳なさそうに顔を
「フォレット家の……令嬢との婚約が決まったんだ。春には結婚するよ……」
フォレット家は、王族の血を引くカーディフ家とは違い、商人から成り上がった貴族だ。
カーディフ家は鉱石を主要資源とするが、フォレット家はその鉱石を加工する技術で栄えている。武器の製造もおこなっているためか、領地はさほど広くはないが、カーディフ家よりも
しかしフォレット家は純粋な貴族ではないため、財はあっても貴族社会での地位は低い。一方のカーディフ家は生まれながらの名家だが、その財は徐々に縮小傾向にあった。
地位と財、二つの家の思惑が合致し、シリルとフォレット家令嬢との縁談が内々で決められたのだ。
そんなことを知る由もないフェリシアは青ざめる。
「結婚って……」
「フェリシア……」
シリルがフェリシアを抱きしめようと近寄るが、彼女はその手を払い除けた。
「どうしてよ!? あなたには私とラナがいるじゃない!!」
フェリシアの大声に反応し、ベビーベッドの中にいたラナが泣き声を上げる。それに慌てたフェリシアは、ラナを急いでベビーベッドから抱き上げた。
背を向けて赤ん坊のラナをあやすフェリシアに、シリルはすまなそうに声をかける。
「どうしようもなかったんだ……。僕が気づいたときには、すでに縁談は決まっていた。父上が勝手に話を進めていたんだ」
シリルに背を向けたまま、フェリシアは非難の声を上げた。
「断ればよかったのよ」
「無理だよ、フェリシア。分かっているだろう? 僕らは幼い頃から、カーディフのために生きることを教え込まれているんだ。それに……」
「それに、なに?」
泣き止まないラナを抱きながら、フェリシアが振り向く。その冷たい視線に耐えきれず、シリルは
「父上が……、僕が拒めば、フェリシアをカーディフから追放するって……」
「うそよ! 父様がそんなことを言うはずがないわ!!」
「うそじゃない! 父上は本気だった! もう、フェリシアが知っている父上じゃないんだよ!」
二人の荒らげた声に呼応するように、ラナの泣き声も一段と大きくなる。
フェリシアは何とかなだめようと、ラナを腕に抱きながら体を上下に弾ませた。そんな彼女の姿を見ながら、シリルは
「フェリシア……その子を里子に出そう。いつまでもこんなところにいるべきじゃない。その子を里子に出せば、すべてが元に戻る」
泣き止まないラナをあやしながら、フェリシアはシリルを
「何が元に戻るって言うの? 今さら、兄妹になんて戻れるわけがないわ! 私はあなたを愛しているの! ラナはあなたと私の子供なのよ!!」
シリルはフェリシアの視線を受け止めきれず、顔を背けた。
「フェリシア……すまない……」
一向に止まないラナの泣き声とフェリシアの射るような視線に、窒息しそうなシリルは苦い顔をしながら、そう言うしかなかった。
* * *
シリルが逃げるように母屋へと姿を消すと、フェリシアはベッドに顔を押し付け、声を殺しながら泣いた。
泣き疲れて眠りに落ちたフェリシアが目覚めると、薄暗くなった部屋にはランプが灯されていた。おそらく老婆の使用人がつけたのだろう。暖炉にも新しい
「こんなはずじゃなかったのに……」
ベッドから上半身を起こしたフェリシアがボソリとつぶやいた。
「望みは
フェリシアの傍らに立つルシファーが小首を傾げる。その態度にフェリシアは苛立った。
「こんなことを望んでなんかいないわっ!」
「しーっ、ラナが起きちゃう」
人差し指を深紅の唇に押し当てたルシファーは、すぐそばにあるベビーベッドを覗き込む。
「この子はあなたとシリルをつないでいるわ。これは、あなたが望んだことのはずよ?」
眠るラナを起こさないように、フェリシアが小声で言う。
「シリルはほかの女と結婚すると言っていたわ。あなたが言っていたことと違うじゃない」
「私は、あなたとシリルを
フェリシアは、ルシファーの言葉が信じられないと眉をひそめた。それを見透かすようにルシファーが言う。
「信じられない?」
「シリルの心が私のものだって確信が持てないわ。だって、あの人はここにはいないんですもの」
そう言ったフェリシアはベビーベッドのそばへ行くと、すやすやと眠る娘のラナの頬を撫でた。
ラナの目元は、シリルにそっくりだった。
ラナを見るとシリルを思い出す。その分ラナを愛しく思うのだが、同時に、シリルがそばにいない寂しさを感じてしまう。
フェリシアにとって、それがどうしようもなくつらかった。
フェリシアを見下ろしていたルシファーが、彼女には悟られないようニヤリと笑う。
「そんなに寂しいのなら、あなたが望む通り、いつでもシリルに会えるようにしてあげる」
母親になったといえども、まだ十七歳のフェリシアは幼い顔つきでルシファーを見上げた。
「本当に?」
「えぇ本当よ」
ルシファーはニコリと笑いながら
「フェリシア、あなたはいい子ね。そんなあなたが、私は大好き」
口角を醜く歪めたルシファーは、彼女の額にそっと手を当てた。
その日以降、フェリシアの様子がおかしくなる。
献身的だったラナの世話をおろそかにし、
フェリシアの異変に気がついた老婆の使用人が執事長へ報告し、カーディフ家の長レイモンドの指示で屋敷の離れに医者が呼ばれた。
見知らぬ者が離れに入ると、まるで縄張りを守るようにフェリシアは暴れ狂う。
そんな彼女をなんとか診察した医師の診断は『身体的な異常はない』というものだった。
しかし、現実と虚構の区別がつかなくなったフェリシアの異常な行動は、日を増すごとにひどくなる。
困り果てたレイモンドは、フェリシアを質の高い医療施設へ移そうとした。だが、フェリシアはラナと引き離されることにひどく拒否反応を示す。まるで動物のように低いうなり声をあげてレイモンドを威嚇し、無理に連れ出そうとすると、彼の腕に
誰にも手がつけられず
そんな離れに取り残された赤ん坊のラナは、育児ができないフェリシアに代わって老婆の使用人に育てられた。
そして、ラナの誕生から十二年の歳月が経過する。
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