25-2:はじまり

 悪魔であるルシファーと契約してから三ヵ月が過ぎた頃、フェリシアの妊娠が発覚する。


 最初にフェリシアの異変に気づいたのは、母親代わりの侍女長だった。

 彼女から報告を受けた家長であるレイモンド・カーディフの衝撃は、計り知れない。

 成長するにつれて亡き妻カーラに似てくるフェリシアは、レイモンドにとって誰よりも幸せになって欲しい存在だった。

 自分の手の中で大切に育ててきたはずの娘の予期せぬ妊娠。人知れずそういった恋人がいたのか、はたまた娘が無理やり関係をもたされたのか……。レイモンドは最も信頼できる執事長に命じ、フェリシアの相手が誰なのかを秘密裏に調べさせた。

 ほどなくして、彼は二度目の衝撃を受ける。フェリシアの腹の子の父親は息子のシリルだと言うのだ。

 激高したレイモンドは、シリルと自室へと呼びつけた――



 理由も告げられず、シリルは執事長とともに父の書斎へとやって来た。部屋の入口で待つようにと執事長から言われ、その場に立ち尽くす。

 嫌な予感がした。ここ最近、屋敷内がなんとなくギスギスしており、シリルは居心地が悪かった。それに、フェリシアの様子が随分前からおかしいことも気になっていた。


 窓際に設置されたウォールナット材の書斎机に向かい、レイモンドはなにやら書類に書きつけているようだった。執事長に耳打ちされ、レイモンドの動きが止まる。

 二言三言のやり取りをした後、レイモンドは書きつけていた書類を何枚か執事長へ手渡す。それを両手で受け取った執事長は、カツカツと靴音を響かせてシリルの横を通り過ぎた。


 パタンと扉が閉じる音が聞こえる。それを合図に、レイモンドはキィーと音を立て椅子を回転させた。

 シリルは異様な雰囲気にたじろぎ、父の顔をまともに見られなかった。


「シリル……」


 レイモンドの低い声に、シリルの体がわずかに跳ねる。


「なぜ呼ばれたのか、心当たりはあるか?」


 もうすぐ六十歳になろうかというレイモンドの声は、張りがあり威厳に満ちていた。

 シリルは足元を見つめたまま答える。


「い……いえ……」


「フェリシアの体調がすぐれない。なぜだか分かるか?」


 そうか。だからここ最近、夜に訪ねても彼女は拒絶をしていたのか……。そう思いながら、シリルは頭を左右に振る。


「いえ、知りません……」


 幼い頃に亡くなった母も病弱だったが、フェリシアも母に似てきたのだろうか? そこまで考えて、シリルは父がなぜ自分にフェリシアの体調を尋ねるのか不思議に思った。しかし、その理由をすぐに悟ることとなる。見上げた先の父の顔は、まるで恋人を取られた男のようだったからだ。


「あ……あの……」


 シリルはその場を取り繕おうと口を開くが、レイモンドの言葉がそれを遮った。


「フェリシアは妊娠している」


「え……」


 シリルは絶句した。目を見開き、レイモンドを凝視する。心臓は早鐘を打ち、頭の中は『まさか』という言葉で埋め尽くされた。


「誰の子か、分かっているか?」


 レイモンドは『知っているか』ではなく『分かっているか』とシリルに問う。シリルには、それが『おまえの子だと認識しているか』と同義に聞こえた。汗が噴き出てくるのが分かる。父には二人の関係がばれているのだ。


「あっ……あの……あの……」


 にらみつけるような父の視線に当てられ、言葉が続かないシリルは魚のように口をパクパクさせる。

 いつかこんな日が来るのではないかと、シリルは恐れていた。恐れてはいたが、何も考えていなかったわけではない。フェリシアとの関係が深まるにつれ、シリルは彼女を手放したくないと思っていた。

 震える手をもう片方の手で押さえつけ、シリルは意を決する。


「わっ私は本気です! 本気でフェリシアを!!」


「愚か者!」


 レイモンドはシリルの言葉を遮り、椅子から立ち上がると彼に詰め寄る。


「おまえは自分が何を言っているのか分かっているのか!? フェリシアは血のつながったおまえの妹だぞ!?」


 シリルはレイモンドの勢いに一瞬ひるんだが、すぐに反論した。


「分かっています! でも、本気なのです! 私は本気でフェリシアを愛しています!!」


 真っ赤になって激高していたレイモンドは、シリルが本気だと分かり、へなへなと椅子へと腰を下ろす。そしてひじ掛けに腕を乗せ、片手で頭を押さえた。


「おまえは……この家を滅ぼす気か……」


「そんな、まさか……。貴族の間でも兄妹で結婚した例はありましょう。フェリシアが私の子を身ごもっているのであれば、なおさらです。私はあの子を妻にめとるつもりです」


 レイモンドは頭を押さえたまま、シリルを見上げる。その表情は失望と絶望が混ざり合ったものだった。


「おまえは、兄妹で結婚した家がどんな末路を辿たどったのか知っているのか? 貴族社会から激しい差別を受け日陰へと追いやられたのだ。もっとも悲惨な末路は、その家は断絶し一族は離散した。おまえは妹を、そんな冷遇へと追いやるつもりか?」


「……そんな……」


 シリルはそれ以上言葉が出なかった。畳みかけるようにレイモンドが言う。


「フェリシアと二度と関係を持つな。おまえには、近々コランド鉱山の地質調査に参加してもらう。忘れるな、おまえはカーディフ家唯一の家督を継ぐ者なのだぞ」


 コランド鉱山はカーディフ家が所有する領地の最南端にあり、屋敷があるイルナミアの町から片道三日はかかる。

 シリルを仕事に埋没させ、フェリシアとの関係を時間的にも遮断させる。レイモンドがそう考えているのは明白だった。



*  *  *



「シリルっ」


 深夜、三週間ぶりにフェリシアの部屋へと訪れたシリルに、フェリシアはしがみつく。


「すまない……。仕事が立て込んでいて……」


 やつれた顔をしているシリルを、フェリシアは心配そうにのぞき込んだ。


「こっちへ座って、シリル。ひどい顔よ……」


 フェリシアはシリルをベッドの端へと座らせると、空のコップに水差しの水をそそぐ。

 水の入ったコップをフェリシアから手渡されると、シリルは一気に飲み干し、肩で大きく息を吐いた。


「フェリシア……体調はどうだい?」


「順調よ。少しおなかが出てきたの。不思議ね。ここに私たちの子供がいるだなんて」


 フェリシアは愛おしそうに自分の腹をでる。

 シリルは目の前に立つ彼女の腹をチラリと見てから、手の中にある空になったコップへと視線を戻した。


「父上から堕ろすように言われているんだろ?」


 ベッドに座るシリルの前に膝立ちをしたフェリシアは、複雑そうに微笑ほほえむ。


「心配しないで。私は堕ろすつもりはないから」


「だけど……」


 顔を上げたシリルは、微笑むフェリシアと目が合う。

 フェリシアは、シリルが握りしめるコップをサイドテーブルへとそっと置いた。そして、空になった彼の右手を両手で包み込む。


「ねぇ、シリル。この家は私たちには窮屈だわ。二人でどこか遠くへ行かない? 私たちのことを誰も知らないどこか遠くへ」


「フェリシア……。そう……そうだね。どこかへ行こう。僕たちのことを誰も知らないどこかへ」


 シリルはフェリシアの両手をぎゅっと握り返してから、彼女を抱き寄せた。フェリシアの唇に自分の唇を重ね合わせ、ベッドへと倒れ込む。


 シリルは間違いなくフェリシアを愛していた。だが、カーディフ家に守られて生きてきた十八歳のシリルは、あまりにも若く、あまりにも浅はかだった……。

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