第3章

25-1:はじまり

 薄暗い闇の中で、布の擦れる音と怪しげな息遣いが聞こえてくる。

 肩まであるシリルのくり色の髪がはらりと落ちた。まるで口づけをするように耳元でささやく。


「フェリシア……フェリシア……」


「んっ……」


 フェリシアはシリルが動くたびに、必死で声を抑えた。

 深夜の静寂は些細ささいな音でも容易に響く。自分から漏れる声が誰かに届いてしまうのではないかと、フェリシアは気が気ではなかった。

 フェリシアに覆いかぶさるシリルは、彼女のそんな姿を見て楽しんでいるようだった。


「シリ……ルっ誰か……来た……らっ」


「誰も……来やしない……よ」


 シリルは、フェリシアの唇に自分の唇を重ねようと顔を近づける。

 そのとき、彼の肩越しに漆黒の髪と飛膜の翼がチラリと見えた気がした。フェリシアは、何が見えたのかと暗がりに目を細める。しかし、シリルの柔らかい唇が自分に触れた途端、その狂おしい快楽へとあっという間に溺れていった――



*  *  *



 カーディフ家は、サンジェスト王国の統治者であるジョアンベイル王家の遠縁にあたる血筋だ。

 王家の末席にあるカーディフ家が所有する領地アルディアス地方は、王国の西側の一角にある。鉱山資源を主な収入源としているこの領地は、ここ数年、点在している鉱山全体の産出量が軽微だが減少傾向にあった。

 アルディアス地方の領主レイモンド・カーディフは、将来、鉱山資源が枯渇するのではないかと常々危惧している。

 こうした背景から、レイモンドの息子シリルと娘フェリシアは、領地の安定と繁栄のために、是が非でも有益な他の領地の一族と婚姻関係を結ばねばならなかった。



 フェリシアが誰にも邪魔されず一人になりたいときは、屋根裏の天窓からこっそりと屋敷の屋根へと上る。

 病弱な母は幼い頃に病で亡くなっているため、母のように口うるさい侍女長にさえ見つかれなければ、屋敷の使用人たちはフェリシアのおてんばに、ある程度目をつぶってくれていた。


「それにしても……、悪魔ってもっと怖いものだと思っていたわ」


 普段はおしとやかにしていなければならない反動からか、フェリシアはくつろぐように足をドンと前へ放り出す。腰まであるダークブロンドの髪が屋根につくのも気にせず、斜め上を見上げた。

 そこには、胸まである漆黒の髪と色白の肌をした赤眼のルシファーが、カーディフ家の領地を一望するように立っている。


「目が合えば殺されるとでも?」


 ルシファーの言葉に、フェリシアはクスクスと笑った。


「そうね。少なくとも、こんなに美しい悪魔がいるとは思わなかったわ」


 フェリシアが幼い頃、母親代わりの侍女長から聞いていたおとぎ話に出てくる悪魔は、大抵、愚かで醜いものだった。だが、隣に立つルシファーと名乗る悪魔は、十六歳のフェリシアから見てものゾクリとするほどに美しい。


「ねぇ、本当に私以外にはあなたの姿は見えないのよね?」


「ええそうよ。私の姿はあなたにしか見えない。何か心配ごとでも?」


「だって、あなたがあまりにも魅力的なんだもの。シリルに見えたら大変だわ」


 本気で心配そうな顔をするフェリシアに、ルシファーは妖艶な笑みを浮かべる。


「それなら一層見えないほうがよいわね。でも安心して。私の興味は、あなただけ」


「私?」


 フェリシアは小首をかしげた。


 あの夜、シリルとの情事が終わり、彼が部屋へと戻った後、ルシファーはどこからともなくフェリシアの前に姿を見せた。

 普通なら侵入者に驚き騒ぐところだが、フェリシアは飛膜の翼を持つ彼女をなぜかすんなりと受け入れた。それは、ルシファーの力の一端なのかもしれない。ヒトと明らかに異なる彼女に、まったく恐怖を抱かないのだ。それどころか、昔から知っているような錯覚に陥り、フェリシアはルシファーにやすらぎを感じてしまう。



「あなたはとても魅力的だわ」


 口角を上げて言うルシファーの深紅の唇に、フェリシアは思わず見とれてしまう。柔らかそうな彼女の唇を頭から追い出すように、慌てて首を左右に振った。


「いいえ、私はただの平凡な女の子だわ。いつかシリルも……」


 それだけ言うと、フェリシアの視線は目の前の町並みへと移る。高台にある屋敷からは、無機質な赤茶色の屋根がいくつも見えた。

 鉱山が主要資源であるカーディフ家領地アルディアス地方。屋敷があるこの町イルナミアは鉱山がなく、主に各鉱山から集まる鉱石の売買を一手に行っている。



 二歳年上の兄シリルとの関係は、道ならぬものだった。

 フェリシアにとって、勤勉で心の優しいシリルは尊敬すべき兄。それが男女の関係に変わったのは半年ほど前だ。

 この関係が永遠に続くとは思ってはいない。フェリシアはどこかの有力者の家に嫁ぎ、シリルも見知らぬ貴族の娘を妻にめとる。それがカーディフ家に生きる者の務めであり、父レイモンドの望んでいることなのだ。

 自分の人生は、この町の屋根のように無機質なものだとフェリシアは感じた。


 ルシファーは何も言わず、フェリシアと同じ方向を見る。

 出会ってまだ数日しかっていないというのに、フェリシアはルシファーのこういった優しさが好きだった。気休め程度のなぐさめを口にすることなく、ただそばにいてくれる。それだけで、フェリシアはこの暗澹あんたんたる思いが救われる気がした。



「どうして血のつながっている人を、好きになっちゃったかなぁ……」


 フェリシアは自嘲気味に笑った。

 しかし、ルシファーは微塵みじんも笑うことなく、眼下の町並みを見続ける。


「どうにもならない思いはあるものだわ」


「あなたにもあるの?」


 フェリシアへと移るルシファーの視線に、一瞬冷たいものが混ざる。だが、それはすぐに消え、もの悲しそうな表情を浮かべる。


「愛し合っている二人が離れるなんて、おかしいわ」


 ルシファーの言葉が、フェリシアの胸になぜか突き刺さった。



 確かにそう。愛し合う私たちが、カーディフ家のために引き裂かれるなんて理不尽だわ。なぜ、この領地のために犠牲にならなければいけないの?



 湧き上がる思いが徐々に膨らみ、フェリシアは思わず自分の胸をわしづかむ。

 ルシファーが満足げにそれを眺めていることに、彼女は気づかなかった。



「私なら、あなたを助けられるわ」


 ルシファーが言う。


「助ける?」


「そう。あなたとシリルを永遠につなげる方法があるの」


 その言葉に、フェリシアは食い入るようにルシファーを見上げた。


「本当に!? それはどうすればよいの?」


 ルシファーは身を屈めてフェリシアを抱き寄せる。そして、彼女の耳元でささやいた。


「私と契約をすればいいわ。そうすれば、あなたの望む通りになる」


 驚いたフェリシアは身をよじり、ルシファーの顔を見た。


「あなたと?」


 ルシファーは優しく微笑ほほえむ。


「そうよ。私と契約するのは怖い?」


 ルシファーは悪魔だ。その悪魔と契約するなどと、正気の沙汰ではない。頭では『してはならない』と分かっていた。しかし、出会ってたった数日ではあるが、フェリシアは本人も気づかぬうちにルシファーに懐柔されていた。


「いいえ。あなたは優しいもの。怖いことなんかないわ」


「そう? いい子ね、フェリシア。私があなたを守ってあげる」


 ルシファーは自分の胸元にうずめるように、フェリシアを強く抱きしめた。


 フェリシアには見えなかった。自分を抱きしめるルシファーが、口角を醜くゆがめて笑っていたことを……。

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