18-2:黒の波紋

 ルシフェルはハルの母と祖母の魂を喰うも、ハルとは母子のような関係を築いていた。そして、無垢の子のハルを悪魔の子に転生させる気はなく、ヒトのままの彼女と穏やかに過ごすことを望んでいた。

 ルシフェルをルファと呼び慕うハルは、自分の母と祖母に何が起こったのかをいまだに知らない。それは考えるまでもなく、ルシフェルが意図的にその真実を隠しているからだ。

 繋がりそうで繋がらない、事実と真実。



 あいつに一体何があったんだ? 俺は……この真実をどう扱えばよい?



 静寂が満ちる部屋で、テーブルに広げられた巻物を前に、俺はひとり物思いにふけっていた。だがその静寂は、勢いよく開いた扉のバンッという派手な音により、突如破られる。

 俺は体をビクリとさせ、扉へと目を向けた。


「ミカエル様!!」


 滅多に取り乱すことのないラジエルが、血相を変えて部屋へ飛び込んできた。


「なっ……ラジエル? どうした?」


 寝間着に裸足という姿でダイニングチェアに座っている俺を見たラジエルは、我に返ったのか、ノックもせずに入室した非礼を慌てて詫びる。


「もっ申し訳ございません。私としたことが……」


「そんなことどうでもいい。何があった?」


 そう言って立ち上がった俺は、着替えるためにベッド脇へと移動する。


「それが……ガブリエル様が下層へ向けて大神殿をすでに出発されたようなのです」


 戸惑い気味に報告するラジエル。

 寝間着の上を脱いだばかりの俺は、上半身裸のままで振り返った。


「ハルのところに……か?」


「はい……」


 ハルとガブリエルの接見は三日後のはずだった。


「あいつ……どういうつもりだ?」


 俺は眉間にしわを寄せつつ、用意されていた白いシャツを洋服掛けからむしり取る。


「表向きには、中層・下層各方面の視察……ということになっております。おそらく本日の夜にはサフィルス城へ入城なさるかと」


「……」


 無垢の子であるハルの存在は極秘扱いとなっており、ほんの一握りの天使しか把握していない。表立っては動けないため、当初の予定では俺が接見の二日前に上層を出発し、ガブリエルが前日にサフィルス城へ向かうはずだった。


「ミカエル様、いかが……」


 ラジエルが「いかがいたしましょう?」と言いかけた時、コンコンコンとノックの音がした。

 俺とラジエルが同時に振り向くと、そこには、開けっ放し扉に寄りかかって立つウリエルの姿があった。



「ミー君、寝坊? そろそろ定例会議の時間だけど?」


「ウリエル……ガブリエルが……」


「ん? ガブ君なら今日はいないよ。視察だってさ」


 ガブリエルの不在を平然と話すウリエルに、俺は少し驚く。


「お前、知っていたのか?」


「さっき聞いた。まぁいいんじゃない? 今日は法規と軍事が議題だし。専門は僕とミー君の部門ところでしょ? ガブ君は議事録を後で読めば十分だしね」


「確かにそうだが……」


 気に入らないといった表情をする俺に、ウリエルは不思議そうに肩をすくめた。


「そんなことよりも、早く支度してよね。みーんなお待ちかねだから」


「分かっている」


 白の軍服に袖を通している俺を見て、ウリエルは「先に行くよ」と言い残し姿を消した。

 ラジエルはそれを見届けてから、俺に近寄り小声で尋ねる。


「いかがなさるおつもりですか?」


「……」


 俺はすぐには答えられなかった。


 今日は、ウリエルが言っていた定例会議に始まり、軍会議を経て、軍事訓練の視察と冥界の職務が夜までぎっしりと詰まっていた。冥界の任務は俺の独壇場なので先送りは可能だが、会議と視察は他との兼ね合いがあり、どうにもならない。

 少し前までの俺だったら、平気ですべてを放り出していただろう。しかし、今は天界ヘブンにハルがいる。俺の行動如何により、天界ヘブンでのハルの心証が変わるかもしれないと思うと、俺はその職務を疎かにはできなかった。


 それに……、ラジエルの報告通り、今夜、サフィルス城へガブリエルが入るとしても、俺の予定を把握しているあいつなら、慌ててハルのもとへは行かないだろう。だとすれば、事態に気づいた俺が到着する前、明日の午前中にハルとの接見が行われるはずだ。

 どうする? 俺だけなら上層ここから一気に下層へ向かうことは可能だが……。



 顎に手を添えたまま無言で立ち尽くす俺を見て、ラジエルが声を抑え気味に言う。


「まさか、上層から下層へ直接向かおうなどと考えてはいらっしゃらないでしょうね?」


「……」


 何も答えない俺を見て、察しがついたラジエルは険しい顔をする。


「お止め下さい、ミカエル様。お忘れですか? 連絡塔を使用せず大陸間を直に通り抜けた『あの時』、あなたが負ったダメージがどれほどのものだったか……」


「あれは……」


 そう言ったきり、俺は口をつぐんだ。



 ルシフェルが謀反を起こした『あの時』、各層を繋ぐ連絡塔が絶対魔法障壁により何者も侵入できないよう封印された。俺は下層にいるルシフェルのもとへ向かうため、自分の特殊能力を使い、鷲の智天使ケルビムを守りながら大陸間にある空間の歪みを通り抜けることになった。

 その時に通り抜けた空間の歪みは、中層から下層までの一層だけ。だが、予想以上に力を使った俺は、下層へ着いた段階で足元もおぼつかない状態となっていた。そのため、鷲のケルビムから魔力を分けて貰い、さらには下層の砦まで彼に運ばれる始末だったのだ。



「あの状況でよくと戦えたものです……。それなのに、今回は上層から二層も下の下層へ直接向かおうだなんて。絶対に許しませんよ」


 腕を組んだラジエルは俺を軽く睨みつける。

 俺が「あれはケルビムを守って降りたせいだ」と言ったところで、ラジエルの納得は得られそうにない。仕方なく、俺は無言で肩をすくめた。



 それにしても……ガブリエルは、なぜ、こんな風に出し抜くような真似をする?



「ガブリエルがハルを『神の子』にしようと必ず企てるわ」


 アルゲオネムスの原生林で言ったルファの言葉が思い出される。だが俺は、頭の中ですぐさまそれを否定した。



 もしそうだとしても、このタイミングじゃない。あいつはこんな風に表立って動くような奴じゃない。では、なぜだ? ガブリエルは俺抜きでハルと一体何を話す気なんだ?



 その時、ふと、ハルの母と祖母のことが頭をよぎる。


 俺の執務室にある魂の系譜を除けば、古いものはすべて保管庫に収められている。そこは上層にいる天使なら誰でも入室可能な場所だ。もちろん、俺の任務を代行していたガブリエルも、だ。


 仮に、ガブリエルがハルの素性を調べるために、彼女の父親グレイ・エヴァットの魂の系譜を手にしたとしても、母親イリーナの系譜は見つけられない。なぜなら、彼女の真実の名はラナ・カーディフだからだ。

 この名に辿り着くには、グレイからイリーナの真実の名を聞き出すしかない。

 だが、サリエルの特殊能力『邪視』の力を使わず、冥界にいる数多の魂からグレイを見つけ出すこと自体、不可能に近い。

 現に、サリエルからガブリエルが冥界へ行ったという報告はなかったし、俺が冥界でグレイの魂に会ったとき、彼の歩みは止まっていなかった。

 それは、俺がグレイの魂を見つけた時点で、輪廻転生の歩みが止まる原因である『現世への執着』を彼は持っていなかったからだ。このことからも、ガブリエルはグレイから現世の記憶を聞き出していない、ということになる。


 ラナ・カーディフの名に辿り着けなければ、ハルの祖母に当たるフェリシアにも辿り着かない。ならば、ハルが敬愛するルファが彼女の母と祖母の魂を喰ったという真実を、ガブリエルは知らないはずだ。



 そうだ……。知るわけがない。



 だが、突如湧き上がった騒めきは、俺の中でシミのように薄ぼんやりと広がっていった……。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る