短編小説「空にあいた穴」

@SyakujiiOusin

第1話

        短編小説 「空にあいた穴」

               

                              百神井 応身


 朝霧が晴れて、科本科の草の葉の先を撓らせ大きく膨らんだ露が、降り注ぐ木洩れ陽を煌めかせている。小鳥たちの囀りが聞こえてくる。そんな朝の情景を静かに眺めていることが、夏川梨香はこよなく好きであった。

 優しい気持ちになれるばかりでなく、今日も良い一日になるだろうと思えるからでもある。

 新学期が始まる。桜の花が咲く頃は、心が浮き立つ。学校に行くことは楽しい。仲の良い友達がいる。女に友情はないと言われるけれど、そんな事は無いと梨香は思っている。

 天然ボケでいつも笑わせてくれる春野 萌、文学少女でいつも小難しいことをいう秋山静子の二人とは、殊に気が合って親しい。何でも話せる。

「で、どうなのよ?」「どうって何が?」「だから彼とのその後に進展はあるの?」

「彼って、ただの幼馴染で、そんな関係じゃないわよ」授業そっちのけの他愛のない恋話が好きな年ごろである。

 髪に赤いリボンをつけ「ど~お、可愛いでしょ?」という萌に

「何よそれ。子供じゃあるまいし」と、秋山静子が辛辣なことを言う。

 萌の問いかけには、ほどほどにして切り上げないと、今度は梨香に対して静子の心理分析が始まるから、急いで教科書をとり出して話題をそらせた。

 そろそろ気合を入れて真剣に将来のことを考えねばならない学年なのである。

 それでも暇をみつけては、学業をそっちのけで、お気楽におしゃべりを繰り返している日々を重ねている間に、もうすぐ夏休みという時期を迎えた。

 高校生活での最後のそれは、楽しいばかりで過ごすわけにはいかない。梨香も進路をどうするのか決めねばならない。母からは進学を奨められているが、家業を継ぐのだって、母のことを思えば考えなくてはならない。


 そんなことにはお構いもなく、萌は口を開けば「いいなあ、梨香は麻生君とも宮本君とも仲がよくて、親しく話ができるんだから」とうらやむ。

 萌は色白で優しい宮本が好きなのである。

「そんなことないでしょ。話すくらい平気じゃない」「駄目よ。前に行ったら口もきけなくなっちゃうんだから」と萌はいう。


 麻生義之は、学業もスポーツも学内では傑出している。番グループの不良も、彼には決して手を出さない。彼は幼い時から父親に手ほどきをうけた空手の腕前が凄すぎるのだということで知れわたっている。

 宮本太郎は対照的に、成績はさして良くないし気弱な感じがする色白で、体育関係は並み以下と言える。しかし、家は裕福である。いうなれば、イジメの対象としては格好の好餌となりうるのだが、そういう目に遭うことはない。

 中学校時代に大勢からいじめられている所に通りかかった麻生がそれを制止し、二度と手を出すことが無いようにワルガキたちに約束させて以来の仲良しである。

 麻生と宮本と梨香は、家に帰るときの方向が同じなこともあって、一緒になることが多かった。

「男女七歳にして席を同じゅうすべからず」ということを言う厳格な父に躾けられたからか、麻生は女性に対してはぶっきらぼうなところがある。

 そもそも、この不可(べからず)の意味は禁止ではなく可能の意味であって、席を同じにすることができない位に大きくなっているということから出ている言葉。 席とは、ままごとに使う蓆(むしろ)を指す。

 幼馴染であることもあって、麻生は梨香に対して構えるところはなかった。

 ただ、宮本や他の男子生徒に対するのと同じで、自分への感情がどうなのかまでは梨香にも判らなかった。

 このごろ、梨香は考えてしまうようになっていた。自分は麻生君のことが好きなのではないか?それもただ好きだというのではなく恋心というに相応しいのではないのかしら、と思うのであった。

 その二文字を口にした途端、まさか嫌われてしまうことはないにしても、変わってしまうものがあるように思え、それを恐れた。欲が出ると、変化は生じる。口にする勇気は出なかった。

 梨香はショパンのバラード1番が好きである。このバラードは、スローテンポで歌にストーリー性を持った感傷的な美しいメロディラインをもっていて、梨香の心の揺れに合っているように感じて好きなのである。

 もの想いに沈みそうになると、それは切ないほどの思いに駆られる。そんなときはピアノに向かい、この曲を弾く。いつの間にかピアノに集中して、憂きことから離れてしまうのであった。


 宮本は、帰宅すると自室の机に向かってとりあえずパソコンを開いた。進路については地元の大学に進む心算であったし、今の自分の学力で何とかなりそうなこともあって、かなり気楽に構えている。学力はともかく、育ちの良さからくる感受性は強いから、聞かなくても親しくしている人の気持ちは汲み取れる方だと思っている。

 麻生が梨香のことを憎からず思っていることは解るが、「好きなのか?」と聞いたら「別にそんなんじゃない」と応えるであろうことも想像できる。

 しかし、本人が気づいていないだけで、かなり好きでいるのだと判っている。

 梨香の方は、もうちょっとはっきりしているのだと思う。

 当人たちが互いに素っ気ない振りをしていても、可愛いくて気立ての良い梨香に、憧れはすれども近寄ろうとする男子はいないし、遠巻きにしてきゃあきゃあ騒いでいる女子たちも、麻生に接近しようとすることは遠慮している。周りに居る者たちの方が、よく解っているのである。


 夕暮れて、山の端に月がかかり、涼やかな風が窓から入ってくる。月明かりが庭木の葉を照らしながら揺れている。虫の声が聞こえるようになるのはまだ何か月か先のことであるが、静かな月明かりの中に浸ると、柄にもないと自分でも思いながら、月見れば千々にものこそ悲しけれ、なんていう和歌が浮かんでくる麻生であった。生き残った蛍がまだちらちら飛び交う季節に、これはないと苦笑が浮かぶ。


 いよいよ明日から夏休みに入る。

 部活を終え、夕闇の迫る自転車置き場に梨香が行くと、そこに麻生が自転車に鞄を入れて、帰り支度をしているところであった。

「暗くなってきたし、俺が用心棒代わりということで一緒に帰ろう」麻生の誘いは、梨香には嬉しかった。

 帰路の途中、小高くなっている丘の上に公園がある。車上での話が尽きないように思えて、二人はそこで久しぶりに星を見て帰ろうということになった。

 設えられているベンチではなく、木々の葉が空を遮らない土手に並んで座った。

 遠くに散らばる家並みに灯が点り始めた。帰宅する家人を温かく迎える用意を整えているに違いない色を湛えていた。

 時間が過ぎるにつれ、二人が坐っているそこは、満点の星空となった。

 ドウダンツツジを満天星と漢字では書くが、言い得て妙である。星々が瞬くと、それに合わせて夥しい青白い光の箭が何物をも突き抜けるようにして降り注ぐ。

 親父が子供の頃には、それこそ星に手が届きそうなほどであったという。

 古人は、星は天空に空いた穴から零れ出る光だと信じ、そこに願いを寄せたのだとか。

「麻生君は、どうするのかもう決めているの?」

「うん、東京の大学に行く」どこを受験するということも言わないけれど、言わなくても合格することに微塵の疑いもないと判ることではあった。

「そう。私はまだ決めかねている」

「すぐ決めなくても、休み中に良く考えれば?そうだ、夏休み中に山登りして、気晴らしに高山植物を見にいかないか?俺は宮本を誘ってみるし、梨香はお仲間3人でということでどうだろう?」

「楽しくなりそうね。明日にでも早速話してみるわ」

 星を見あげて、しばらく会話が途絶えた。

「あのね、麻生君」「なに?」「ううん、何でもないの」

 言い淀んでしまった言葉は伝わることもなく、天空にあいた星の穴に吸い込まれてしまった。星に願いを託すよりなくて終わった。


 夏休みの登山は、西駒ケ岳に決まった。ロープウエイを使って楽をするのではなく、受験生らしく歩いて登ることになった。

 今日の好天を予想させる早朝の朝靄をついて登り始めた。靄が晴れるに従って、緑色の木々の葉が鮮やかさを増した。

 急登を、汗をかきながら只ひたすら登る。一心になることで、迷いも憂いも、どこかに行ってしまう。

 麻生の喜ぶ顔見たさに、腕に縒りをかけて作ったお弁当が、張り切り過ぎて量が多いのが梨香の肩に食い込む。弱音を吐くわけにはいかない。試練なのだと思う。

 長い登りを終えて2600mの稜線に立つと目指す西駒ヶ岳が目の前に現れた。 吹き抜ける風が、汗ばんだ肌に快い。ここからは快適な稜線歩きとなる。山頂までの標高差は400m程なので気分的にも楽になるが、山頂ではなく、そこから宝剣岳へ向かうことにした。宝剣岳のすぐ下に、天空の花畑と呼ばれる千畳敷カールがある。氷河が山肌を削って作った広がりである。千畳敷カールには1周40~50分ほどの遊歩道が配されていて、そこにある高山植物は150種類に及ぶと言われている。巡って花を楽しむ。

 花の名前は分からないし、数えきれない覚えきれないほどに溢れていた。黄色い花が目立つ。西に黄色は縁起が良いという。

 特に似ている黄色い花の名前と主な特徴は、シナノキンバイ(信濃金梅)=葉が5つに裂け、手のひらのような形状。ミヤマキンポウゲ(深山金鳳花)=葉が3~5つに裂け、かつ細い。花に光沢がある。ミヤマキンバイ(深山金梅)=葉が大きく、やや地面に沿うようになっている。

 多少の見分けができるだけでも、自然への興味は増すし、愛しくも思える。


 お花畑で燦々と降り注ぐ陽光を浴びながら昼食をゆっくり摂り、山の精気と高山植物の環境に打ち勝つエネルギーを吸収することにした。

 下山にはロープウエイを使うことにすれば、時間の余裕はたっぷりある。吹き渡る風が心地よい。空は蒼く、白い雲はゆっくり流れていた。

 身体を目いっぱい使った後の充足感は、喩えがたい。麻生の傍らに座っているだけで幸せであった。

 日暮れて、家にたどり着いた。

 夏休みに皆で楽しんだのは、その一日のみである。それぞれが受験その他に打ち込む時期であってみれば、そうなる。


 向日葵の花が頭を垂れ、いつの間にか日中にツクツクホウシが鳴くようになり、夕方には蜩が寂し気に鳴き合うようになった。

 陽射しが影を長く延ばすようになって夏休みは終わった。

 やがてコスモスが咲き、残菊が地面に伏すころになると、日増しに風が涼しさを通り越して冷たさを感じさせるようになった。ゆく秋は短く儚い。

 そこから卒業式までは一気に駆け抜けてしまったと言ってよい。


 卒業式が終わって外に出ると、思いもかけず雪が降り始めていた。徐々に激しさを増し見る間にあたりを白く染め上げていくのであった。急の雪であったから、足ごしらえがそれ向きではない。ついつい足元を滑らせてしまう梨香に、麻生は手をさし伸ばした。

 手を繋いだのは初めてのことになる。麻生の手は温かかった。

 三日後には東京に発つと麻生が告げ、「見送りにいくわね」と梨香が言い、それ以上のやりとりには進まないままその日は別れた。駅での見送りも言葉少なに

「元気でね」と言うだけであっけなく終わった。


 雨のそぼ降る中を、赤い傘をさして梨香が歩いている。努めて明るく振る舞おうとしているように宮本には見て取れて心が痛む。

 かつて、宮本をイジメていた連中は、長じてくるにつれ宮本の父親の社会的な影響力を慮るようになったのか、宮本にも気を遣う。

「親父は親父、俺は俺なのに」と思うから、彼等と積極的につきあうことはないが、彼らは宮本が梨香を大事に思っているのだと解釈し、頼みもしないのに勝手に梨香のガード役をしているように見える。

 そのせいかどうか知らないが、梨香には浮いた噂話はひとつとしてない。

 宮本は、麻生が梨香を大事に思っていることを察し、彼が自分で行動を起こすまで梨香を守っていかなくてはならないと心に決めている。それが、自分を守ってくれた麻生への恩義に応えることなのだと信じている。

 麻生は、時々電話をしてくる。

「どうしてる?」と聞きながら、簡単な近況などを伝えてくる。

「梨香はどうしてる?」とさりげなく聞くのも忘れない。

「自分で聞いてみたら?」と、それに対しては素っ気ない返事を返すのが常であった。

 麻生には、男らしく自分の気持ちを伝えなかったことに忸怩たる思いがあるのだと窺い知れるが、麻生が自分が自立もできていなくて思いだけを口にできる性格でないことは理解している。大体が固すぎるのだと思うのである。先のことはどうなるかわからないのだから、自分の気持ちに素直であってもよいではないかとは思うが、口出しはしていない。

 物事にはタイミングというものがある。それを逃すと、その後に巡ってくるチャンスは極端に狭まる。ボタンをかける機会にそれをしないと、縁というものは遠ざかる。運というものはそういうものかも知れない。流れに乗らなかったら、違う瀬を進む。もとの流れに戻るかどうかもまた運なのでろう。

 それに限ったことではないが、何事にも、どんな小さなことについてでも、それができるときにしなかったことで後悔することは多い。したことによってする後悔よりも、しなかったことで後悔することの方が心に与える影響が大きい。取り戻せないからでもある。


 宮本は久しぶりに萌と会った。

「ねえ、もうすぐ夏休みだと思うけど、麻生君はいつ帰ってくるの?連絡あった?」

 自分のことをさておいて、それが第一声であった。

「うん、それなんだけど、今年は部活の合宿があって、帰郷できないらしい」

「そ~お、残念ね。梨香が寂しがるかな?」

 梨香は、それも仕方ないことだと受け止めているようであった。

 秋が過ぎ、冬も過ぎた。また桜の季節が巡ってくる。

「都会の絵の具に染まらないで帰って」という歌詞の歌が昔あったな~と、萌は思い出すのであったが、それを口にすることはなかった。


 眩いばかりの陽射しが肌を焦がしそうになった夏の昼下がり、麻生が突然梨香の前に現れた。今までの麻生には見たことが無い真剣な面持ちをしていた。

「梨香。ずっとずっと考えていたことなんだけど、俺は梨香が好きだ。まだ一人前になってはいないけれど、一緒にいたい」

 梨香の両眼から、堰を切ったように涙が溢れだした。

 麻生は、まだ幼かったころに父から言われたことがある。

「男は七呼吸」その間に何事も決断しろというのである。そして「事に置いて後悔せず」と、「決断したことにはつき進め」というのが続くことばであった。

 そのために、日々精進してこそ男なのだというのであったが、理解できていたとは思えない。

 何をやるにも、やらない理由を見つけて先に進むことをしないのは怯懦というのだと教えたかったに違いない。どうなるかわからなくても勇気をもって踏み出さねば、何事も叶わない。遅きに失したかも知れないが、頭ではなく心で理解したのであった。

 兎に角、意思表示はした。あとは梨香がどう応えてくれるか。

 梨香は、麻生の胸に縋って言葉もなく嗚咽するばかりであった。長い孤独に耐えてきたのである。

「また西駒に登ろう。今度は二人だけで」と麻生が言った。楽しい想い出が詰まった場所である。

 前と違って、最初からロープウエイに乗って千畳敷カールまで登った。咲き誇る高山植物の花々が、喜んで迎えてくれた。

 麻生が少し先で屈みこんで何かしている。梨香のもとに戻ってくると、手にしたものを差し出した。クローバーの花で作った指輪であった。

「今はこんなものしかあげられないけれど」といいながら指にさしてくれるのが、どんなに嬉しいことであったか。


 母との夕食を済ませた後、梨香は話しかけた。

「お母さん、私、麻生君のことが好きなの」

「そんなこと前から判っていたわよ。今日会ってきたんでしょ。それでどうなの?」

「それで、お母さんのことなんだけど」

「みなまで言わなくったっていいわよ。私は一人になっても心配いらないわ。あなたのことを一番に考えて頂戴。今までよく頑張ったわね。あなたは私の自慢の娘よ」そう言って梨香をぎゅっと抱きしめた。


 麻生のもとに旅立とうとする梨香を見送りに、宮本と萌と静子が集まった。

「先を越されちゃったわね」と、結婚なぞおよそ考えてもいない静子が言い、「良かったなあ」とだけ宮本が言った。

 萌は普段見せもしない泣き顔で「頑張ってね」を繰り返した。

 発射のベルが鳴り響いた。

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