ささやかな不安

nobuotto

第1話

 お前の心臓には毛が生えているとよく言われる。しかし、本当は蚤の心臓である。

 極端な気の弱さを隠すために虚勢の上に虚勢を重ねて生きている。

 先月の中学の同窓会のことだった。中学校以来の親友である菊池が「そう言えば、思い出した」と話した当時の私が、ずっと変わらない本当の私なのだ。

「入学してすぐだったよな。昼休みに教室の窓から二人で校庭を眺めてたら、俺はここでやっていけるのかなって、急にお前が言ったこと。覚えてるか。本当に意外だったよ」

 中学校は寄留組と言われる学区外からの生徒が多く、私もその一人であった。

 知り合いがいない。その不安を打ち消すため勉強も部活も誰よりもがんばった。自信満々な学校生活を送っているように見えた私が、こんな言葉をふと漏らしたので強く印象に残っているのだという。

「いや、覚えてないなあ」

 そう答えたが、実際はよく覚えていた。

 虚勢の上に虚勢を重ねて、不安の中で生きてきた私にとって、菊池はいつでも心の支えだった。

 試験では毎回トップ争いをする良きライバルだった。私と菊地は名門私立高校に進学した。蚤の心臓の私は優秀な学生ばかりの学校で脱落しないか不安であった。しかし、いつも菊地が側にいたので、そんな不安も和らいだ。

 菊地は部活に精を出していたので、もっぱら私が授業のノート取りを行う。これは中学時代から同じだった。試験勉強はいつも一緒に泊りがけでやった。菊地はポイントを抑えることが非常にうまく、私も彼のおかげで実力以上の成績を収めることができた。

 そして私達二人は有名国立に現役で合格することができた。

 菊地が誘ってくれたテニスサークルで多くの友達もでき、楽しい大学生活を送ることができた。妻ともこのサークルで出会うことができた。

 中学、高校、大学と環境が変わるたびに、身も心も潰されるようなプレッシャーに怯えてきたが、菊池のおかげで私は乗り切ってきた。

 大学を卒業して大手商社に入社した。菊地も同期で入社した。会社での出世争いは厳しいものであった。

 そして、ここで蚤の心臓が親指で押しつぶされるような経験を味わった。

 会社の出世競争で敗れた。

 失敗したプロジェクトの責任を負わされて地方の小会社に出向させられたのだ。本当は菊池のミスだった。私ははめられた。中学から信頼してきた親友の菊池に裏切られたことのショックは大きかった。

 その上、単身赴任の間に妻は私と別れて菊地と再婚した。思い起こすと大学のテニスサークルで妻が付き合っていたのは、最初は菊地だった。親友の菊池から彼女を奪う気など毛頭なかったが、妻は私を選んだ。

 これまで菊地に助けられてきたと思っていたが、自分はうまく利用されてきたのではないか。そんな疑いを私は初めて持った。

 中学の時、窓から言った私の一言を聞いたあの時から、私を利用できる奴と思ったのではないだろうか。

 だがそれは僻みで、会社という新しい環境になじめなかった私が悪いのである。

 出向会社で本来の臆病者の自分に戻らないかと心配したが、自分ができることは誠心誠意全て行った。そして赤字だった会社を立て直すことに成功した。

 この時の苦労が体も心も蝕んだことは確かである。寿命を縮めることにもなったが、私はこの最悪の環境も乗り切ることができた。

 そして、今、死を迎えようとしている。

 死ぬのは怖い。こんな不安だらけのことはない。

 しかし、人は生まれ変わるというではないか。少々今回の人生が短った分、次の人生は長生きできるに違いない。

 だから、きっと次も大丈夫だ。

 何度も何度も私は「きっと、次も大丈夫だ」と自分に言い聞かせ不安を取り除こうとした。

 しかし、なんだろうか。大丈夫ではないような気がしてしょうがなかった。

***

「おぎゃー。おぎゃー」

 分娩室で私は思いっきり産声をあげた。

「元気な男の子ですよ」

 私の新天地である。今度も男に生まれたようである。

 記憶がだんだん薄れて行く。生まれたとたんに、これまでの記憶が無くなるようである。男であろうが、女であろうが、全ての記憶がなくなろうが、きっと私はやっていける。きっと大丈夫。

 しかし、これまでに感じたことがない不安がやはり拭えない。なぜだろう。

「さあ、お兄ちゃんですよ」

「お兄ちゃん?」

 そうか私は双生児だったのか。私が先に生まれ、あとから出てきた子が兄になるのか。私の横にその兄は置かれた。

 その時小さな声が聞こえた。

「また人生が始まるのか。あー、記憶が薄れる。菊地の人生も実によかった。いつだって欲しいものは手に入れた。そのためには何でもやった。いやあ、満足だった。菊地の時以上の人生を遅れるかなあ。まあ、今度も大丈夫だろう」

 私は身体中が震えた。

「菊地。菊地が私の兄。拭いきれなかった不安の原因はこれだったのか。あー、記憶が薄れていく。こいつが一生私の兄として私を…あー記憶が無くなっていく」

 私は兄の指を握りしめた。今の私ができる最大の復讐であり、新しい人生における兄への警告だった。

 看護婦さんの明るい声が聞こえた。私の母に言っているのだった。

「まあ、かわいい。ほら弟さん、お兄さんの指をしっかり握っていますよ。もうすっかり仲良し兄弟ですねえ」

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