切符
nobuotto
第1話
康介は切符を手に入れた。
そろそろ四十歳になるというのに、中小企業の平社員のままである。そのくせ入社以来仕事仕事で休む暇もなく恋人もいない。一体なんのために生きているのか。
「くそー」とアパートの窓から小さく叫んだ時に、部屋の中へゆらりゆらりと切符が落ちてきた。切符の表には「環状線」と印字してあった。裏にも何か書かれているようだが、かすれていて読めない。きっと玩具の切符に違いない。しかし、わざわざ自分の部屋に舞い込んできてくれた玩具なので、なんとなく財布に入れておくことにした。
風呂上がり鏡をみると、額に切符が貼りついていた。
剥がそうとしても剥がれない。そもそも触れない。皮膚の一部になったみたいだ。
財布を調べるとそこにも切符があった。飛び込んできた切符と違う切符が額に張り付いているようだ。
翌朝、前髪でなんとか切符を隠して家を出た。仕事を休むわけにはいかないので、帰りに病院に行こうと思っていた。
しかし、家を出たとたんに町の異様な光景に康介は驚いた。
老若男女すべての人の額に切符がついている。誰も気付いていないらしい。
康介はほっとした。誰の額にも切符があるのだから、その切符の正体はわからなくてもいい。自分だけがおかしな事態になったわけでないなら、それでいいのだった。
子供も大人の切符も大きさは変わらないが年を取ると、段々色が褪せて「環状線」の文字も薄くなっていくようであった。
長年つけていれば切符も老化するに違いない。ということは額にある切符を見れば寿命がわかるということになる。自分の切符はまだまだ印字も綺麗ではっきりしている。長生きしたいような人生ではないが、まだ四十前でもあり、もう少しは生きていたい。
死に際にどうなるかも分かった。
額の切符が半分剥がれていたテレビのキャスターが、数日後に急な心臓発作で亡くなった。災害現場の映像をみると、生き残っている人の額には、しっかり切符がついていて、若くても災害に巻き込まれて亡くなった人の額には切符がなかった。
この切符が剥がれた時が、寿命も尽きる時らしい。
康介は、久しぶりに田舎に帰った。両親の切符の文字は薄くはなっているが、しっかり額に張り付いていた。安心した。
こうして自分も含めて人の寿命がわかるようになってから、康介の生き方はだんだんと前向きになっていった。これまでのように漠然とでなく、生きていることの実感を感じるようになり、額に切符があるうちは充実した人生を生きようという気持ちになったのである。
するとこれまで自分から離れていた幸せも自分の元に舞い戻ってきた。
どんな仕事でも結果を出すようになり、これまでの遅れを取り戻すかのようにトントン拍子に昇級し、かわいい妻のいる家庭も築くことができた。
切符のおかげで人生をやり直すことができた。
そう思った矢先である。
切符の印字は綺麗で濃いにも関わらず、少しずつ剥がれ始めたのである。
こんな筈はない。まだ四十代半ば、取り戻した人生をいよいよこれから充実させていかないといけない。子供も欲しい。今死ぬわけにはいかない。
いくらそう思っても日々切符が剥がれていく。もう死ぬ準備をしなくてはいけないのか。その決心はどうしてもつかない。もっと生きていたい。
康介は切符が気になりに何も手が付かなくなった。切符が気になっていつでもスマホの画面をかざして額を見る。どんどん剥がれていく。
しかし、康介はもう一枚切符を持っていた。根拠はないが、この切符が助けてくれるに違いない。そう考えると少しは気が軽くなった。特別のケースを作り、首からぶら下げて肌身離さず持ち歩くことにした。
その時がやってきた。朝、鏡を見るとほとんど剥がれ掛かっていた。
もう一枚持っているが、先の事はわからない。顔色が悪いから会社を休めばと妻は言うが、話しても信じてくれるわけもなく、また家にいたから何かよくなることもない。いつものように出社した。
切符のことで頭がいっぱいだったのだろう、気がつくと横断歩道の真ん中に立っていた。横から車が突っ込んできた。自分でも驚くくらい宙にまって道路に叩きつけられた。痛いとも感じない。意識がだんだん遠のいていく。これだったのか。
康介はケースから切符を取り出した。その時、額の切符がヒラヒラゆっくりと空に飛んで行くのが見えた。急がないと命がなくなる。
ケースから取り出した切符を額に貼ろうとした時、裏に書かれている文字が浮き出てきた。
そこには「ミジンコ」と書かれていた。
空にゆっくり上がっていく切符の裏にも文字が書かれていた。
「人間」
康介は一瞬手が止まったが、思い切って切符を額に貼り付けた。
切符 nobuotto @nobuotto
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