賢者、ここにあり。

冷門 風之助 

VOL.1

 雪がちらついてきた。

 そういえば、今年もまた近くなってきたんだな。

 街中にやたらビング・クロスビーの甘い声や、赤鼻のトナカイ・ルドルフの奮闘ぶりを歌った、クリスマスソングとやらが意味もなく流れ、スーパーマーケットや菓子屋の店先にはお菓子の詰まったブーツやら、

『クリスマスケーキのご注文、承ります』の広告が張られるようになった。つまりは聖なる赤子の誕生を祝すという、あのクリスマス・イブである。

 俺も『アヴァンティ!』のマスターから誘いを受けていた。

『イヴの夜、午後6時半からだ。時間無制限、2万円で呑み放題!どうだ。お前も来ないか?』

 つまりは聖なる日、否、その前日をどんちゃん騒ぎで祝おうと、こういう訳である。

 懐の寂しい俺にとっては、願ってもないお誘いではある・・・・ではあるが、しかし俺には少しばかり迷いがあった。

 クリスマスイブ。といえば、ガキの頃から欠かせぬ習慣があった。

 米国が生んだ、偉大なる短編作家、O・ヘンリー氏の名作、この日に相応しい、貧乏な夫婦の物語を、午後10時にたった一人で朗読するのだ。

 自衛隊に在隊していた時、どうしても抜けられない勤務であった時を除いて、この習慣は変えたことがない。

 何故そういう習慣を?と聞く人間は良くいる。

 しかしそれについて別に深い理由があるわけでもない。

 ただ何となく『そうしたかったから』としか答えようがないのだ。

 だが大人になってくると、それなりの付き合いとか仕事、それにあの琥珀色の液体という誘惑も発生してきてしまう。

 殊にここ何日、否、何週間か、アルコールとは縁のない生活を送ってきた俺に とっては、マスターの誘いはさながら妖精サイレンの歌声の如し、なのである。

 長年の習慣と、アルコール・・・・どちらを優先すべきか。

 不味いコーヒーを口に運び、デスクにどっかりと足をのせ、結論の出ない考えを、俺は頭の中で巡らせていた。

 そこに電話が鳴った。

 勿論携帯ではない。

 俺は本来携帯は苦手だ。

 だからできれば持ちたくないので、よほど特別な場合以外は使わないし、かけられるのも嫌いだ。

 だから、かかってくるのはもっぱらデスクの上のプッシュホン(黒電話の方が趣味なのだけれど、あちこち探してもどうしても見つからなかった)の受話器をのったらと取った。

『はい、こちら乾探偵事務所、乾宗十郎です』

『乾か?俺だよ。俺』

『私は貧乏な私立探偵です。特殊詐欺のカモにするほど銭はありませんよ』

『何を下らねぇことをぬかしてるんだ!恩田だよ!恩田!』

 なるほど、確かに恩田の声である。

 警視庁渋谷署生活安全課捜査副主任、通称『カミソリの恩田』こと、恩田繁雄警部補其の人だ。

 警察とは必要以上の付き合いはしたくないのだが、生活安全課というと、俺達探偵とは切っても切り離せない関係があるので、どうしたって顔見知りが多くなる。

『実はな。お前にどうしても聞いてもらわなきゃならない話がある。ついては渋谷まで出てきてくれんか?ハチ公口を右に折れたところにある、エデンで午後1時だ。頼むぞ』

 警部はそれだけ言うと、一方的に切った。

 こっちはまだ行くとも行かないとも言っちゃいない。

 しかし、あの『カミソリ』のお呼び出しだ。

 無視をするわけにもゆくまい。

 俺はコーヒーの残りを飲み干すと、シナモンスティックを咥えた。




 

 




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