西東京ゾンビパラダイス

稲岸ゆうき

第1章『開幕』

第1話 稲葉祐介

 いつも心の中で願っていた。退屈な日常が終わり、非日常でヒーローになる自分を。

 しかし、現実はあくまで現実と受け入れていた。皮肉にも、その願いが叶うその時までは。


「ああ神様、感謝します」


 稲葉祐介は踏み折ったモップの柄を握り締め、皮肉めいた笑みを浮かべた。

 黒い詰襟の制服に身を包み、全体的にずんぐりとした日本人体形。顔立ちも有体に言って魅力的とは言い難く、全体的に大きいパーツが大雑把に配置されていた。中学生とは思えないぎらついた三白眼は忙しなく周囲を伺い、歪んだ笑みを浮かべた口元からは獣じみた犬歯が覗く。


 裕介が通う学校の1階廊下は既に地獄絵図と化していた。あちこちに飛び散った鮮血のせいで吐き気を催す生臭さに満ちていて、足元は上履き越しでもヌルついて不安定だったし、かくいう祐介が握っているモップの柄にも、既にべっとりと血が付着している。


 かろうじて閉じられている昇降口のガラス越しにこちらを伺う『奴ら』の視線が、ここもいつまでも安全ではないと示していた。


 祐介は舌なめずりして渇いた唇を湿し、足元に横たわっている頭のない死体を爪先で転がした。ついさっきまで元気に動き回り、祐介に襲い掛かってきていた。胸や腹を突いても一向に怯んだ様子を見せず、セオリー通り頭部を破壊してやっと活動を停止した。


「実際目の当たりにするとどういう仕組みなんだろうな。既に死んでるなら頭があってもなくても変わらなさそうだけど」


 周囲には同じように頭部を破壊された私服姿の死体と、『まだ』新鮮な制服姿の死体が転がっている。死体を覗き込んでいた祐介は軽く宙を仰ぎ、モップの柄で肩を叩く。


「ゲームや映画だと、このあと起き上がって襲ってくるパターンだよなぁ。死体に鞭打つようで気が引けるけど、念には念を……ってね!」


 言いながら、死体の頭部を破壊していく。動いていないならば、体重をかけて首を踏み折れば後は難しくない。とはいえ、数が数なので重労働には違いない。


「これで良し。さて、もうちょっとマシな武器でも探しに行くかな」


 目につく範囲の死体を断頭し、額の汗を拭った祐介はボロボロのモップに代わる武器を求め、技術室に向かって歩き始めた。あそこならもっと『奴ら』を破壊するのに適した『道具』がいくらでもある。


 『奴ら』の出現からこの地獄までは一瞬だった。窓の外を眺めていた祐介の目に最初に飛び込んできたのは、『奴ら』に襲われる警備員の姿だった。


 それを見た職員も次々に応援に駆け付け、二次被害を拡大させた。パニックを起こした生徒たちはとにかく逃げ出そうと昇降口に殺到し、大渋滞を起こしたところに到着した『奴ら』によって三次被害を生みだした。あとはドミノ倒しの要領で瞬く間に地獄の出来上がりといった具合だ。


 裕介の知る限り、全校生徒が犠牲になったということはない。せいぜいが3分の1といったところだろう。今はとにかく人手が欲しい。


     ・     ・     ・


 北見恵理は善良で平凡などこにでもいる中学1年生だった。勉強も運動も平均より少し下。小柄な身体つきのせいで小動物的な扱いを受ける『その他大勢』のひとりに過ぎなかった。


 北見は技術室の机の下にうずくまり、両手で耳を塞ぎ、両目を固く閉じ、歯の根が合わずに耳障りな音を立てる奥歯を必死に噛み締めていた。


「ありえない。わけわかんない。ママぁ、パパぁ、誰か、助けてよぉ……」


 うわごとのように呟きながら、ただ震えることしかできない。


 北見のクラスは実習中であり、騒ぎを知ってパニックを起こした生徒たちは我先にと逃げ出した。小柄な北見は人混みに揉まれる最中に弾き出され、足を挫いて逃げ遅れた。逃げ出した生徒たちの末路を考えれば結果として幸運だったが、それを知る由のない北見はただ泣くことしかできなかった。


「いやだよ、怖いよぉ」


 そんな北見の足首が不意に掴まれる。


「ひっ!?」


 声にならない悲鳴をあげる北見の目に飛び込んできたのは、変わり果てた姿のクラスメイト。サッカーが得意で、女子の間でも何度か話題になっていた。

 今は、見る影もない。食い破られた頬から終始呻き声を漏らしながら、虚ろな目で北見を見つめている。


「やだ、やだ、やだやだ! 来ないでぇ!」


 必死に振り払おうとするが、恐ろしい握力で挫いた足首を強く握られているので痛みが頭に響き、思わず悲鳴をあげてしまう。もう何が何だかわからず、泣きながらメチャクチャに喚く北見の手に、何か硬いものが当たる。


「使いなよ」


 突然、場にそぐわないのんびりした声が響き、北見は目を開ける。その手元にはバッテリー式のドリルが転がっていた。祐介が北見の手元に滑らせたものだ。


「た、助けてッ!」

「え? もう助けただろ? あとは自分で助かってくれよ」

「は?」


 予想だにしない言葉に北見の思考が完全にフリーズする。目の前に立っている祐介という人間が、今まさに襲い掛かってきている『奴ら』よりもはるかに恐ろしい化け物のように感じた。


「ここで僕が助けたとして、僕が死んだり僕と別れたらどうするんだよ。また他の誰かに助けてもらうのか? もう誰も守ってくれないんだ、自分で何とかしろ。その手伝いならいくらでもする」


 祐介の言葉は北見の頭にまったく入ってこない。


「どっちにせよ、早く決断しないともう君に残された時間が少ないぞ。選べよ、戦って抵抗するか、そのまま死ぬか」

「意味わかんない、意味わかんないよ!」

「いい加減目を覚ませ、クソガキ!」


 北見が何かに打たれたように体を震わせた。次の瞬間、手元のドリルを握る。

 『元』クラスメイトが北見の足首を引き寄せ、大きく口を開いた。


「わああああああ!」


 トリガーを握り締め、唸りをあげるドリルの切っ先を眉間に突き立てる。

 おぞましい手応えと共に、頭蓋骨を粉砕し、その中身をミキサーにかける音と体液が周囲にまき散らされた。


 狂ったロボットのように手足を痙攣させた『奴ら』は、しばらくすると力なく崩れ落ちた。


 呆然とした表情のまま両手でドリルを握り締めていた北見は突然それを放り出し、体をくの字に曲げて胃の中身を盛大にぶちまけた。祐介は『奴ら』の体を隅に追いやると、泣きながら嘔吐を繰り返す北見の背をさすった。


「わ、私、人を、こ、ころ……」


 そう呟いて、また込み上げた胃液を吐く北見の頭を、吐瀉物で汚れるのも構わず裕介は抱き締めた。


「誰にでもできることじゃない。君はよくやった」


 意外なほど優しい声。

 張りつめていた北見の何かが切れた。


「う、え、えぇぇぇぇぇぇん!」


 泣きじゃくる北見の頭を撫でながら、祐介は転がっているドリルに視線を落とす。

 破壊力は申し分ないが、いかんせん子供が武器として使うには絵面がショッキングすぎる。というのが率直な感想だった。北見のような反応のほうがよほど『まとも』であることは祐介にも理解できる。


「立てるか?」

「足が……」


 顔をしかめる北見を見て、祐介は『奴ら』が掴んでいた北見の足をそっと触ってみる。


「いっ!」

「腫れてるね。でも、ここじゃどうにもならない。悪いけど、保健室まで頑張ってもらうしかないな。僕も一緒に行こう」

「ありがとう、ございます」


 北見は、自分の吐瀉物まみれになってしまっている祐介の上着を見て、済まなさそうに俯いた。


「気にしなくて良いよ、どうせ返り血まみれだったし。そうだ、まだ名前を聞いてなかった。僕は稲葉祐介、よろしく」

「北見恵理、です。よろしくお願いします、先輩」


 裕介の学校は、女子はスカーフの色が、男子は襟章の色が学年によって分けられている。1年生の北見は若草色。3年生である裕介は紺色。2年生は黄色。


 祐介は頷き、とりあえず手近な釘抜きを手に持った。形状、長さ、重さ、すべてにおいて申し分ない。


「じゃあ、行こうか」


 まるで散歩にでも行くような口調で祐介は北見を促した。


――それは日常という殻の中で朽ち滅びるはずの、異形のもの。幸か不幸かその殻は砕かれ、それはこの世に生を受けた。稲葉祐介の物語は、この瞬間から始まる。

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