第3話

 『江の島ハウジング』の専用駐車場に自転車を置くと、彰夫はオフィスへ急いだ。

 

 シャワーでビールの匂いを落とすのに手間取り、いつもの出勤時間より遅れ気味だ。デスクへ腰かけた早々、早速年の離れた姉の信子の説教が始まった。


「彰夫。また遅刻よ。寝坊もいい加減にしなさいよ。毎晩遅くまで起きてるんでしょ」

「宅建の試験がもうすぐだから、準備してるんだよ」

「そうよね。2回も落ちて、もうしくじるわけにはいかないわよね」


 彰夫は返事をしなかった。


「難しい大学受験にはあっけなく受かった彰夫が、どうして宅建の試験はだめなのかしらね。不思議だわ…。ところで彰夫、なんか酒臭いわよ。飲んだの?」


 彰夫は、大量のボディソープとオーデコロンで匂いを消したつもりだったが、鼻の利く信子には無駄だったようだ。


「俺が、飲めないのは、姉貴が一番よく知っているだろ」


 今朝の出来ごとについて、説明が面倒な彰夫は、話を打ち切りたくて、忙しそうに机の整理を始めた。


 『江の島ハウジング』は小さな有限会社であるが、信子と彰夫の父が江の島に創業して30年を超える。両親を亡くした後、信子夫婦が後を引き継ぎ、今では江の島の地元密着型不動産会社として、小さいながらも2階建のビルを構えるまでになった。そこまで継続成長させたのは、経理担当専務としての信子の功績が大きい。


「彰夫君もやっと飲めるようになったの?呼んでくれればいいのに…」


 信子の夫である克彦が、彰夫と信子の会話に割って入ってきた。彼はこの会社の社長だが、主に外交的な業務を受け持ち、客や業界とのつき合いで酒とゴルフに明け暮れる毎日だ。

 経営に関する重要な決定は信子がおこなう。外から見れば髪結いの亭主のようではあるが、克彦はこの形が家庭と仕事を円満に維持できる最良の形であることがわかっていたのだ。


「彰夫さん、おはようございます」


 唯一の社員である美穂が香ばしいコーヒーを持ってきた。


「ありがとう」


 そう言いながら彰夫は、コーヒーを両手で受け取り、カップに口をつけた。

 コーヒーの湯気が、彰夫の頬に優しく触れながら立ち昇る。美穂は、高原の朝霧の中に王子を見いだしたかのごとくうっとり眺めていた。


「美穂ちゃん、順序がちがうでしょ。まず社長にコーヒーだすもんだよ」


 笑って言う克彦の言葉に、美穂が現実に引き戻される。


「はーい」


 美穂は名残惜しそうに、彰夫のそばから離れて行った。『江の島ハウジング』の朝は、いつも通り始まった。

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