第9話

 新街(ニュー ストリート)と普仁街(ポーヤン ストリート)の交差点から太平山街(タイペンサン ストリート)に進む。いわずと知れた、ソーホーエリア発祥の地。SOHOはここ、South of Hollywood road(サウス オブ ハリウッドロード)の略式と言われている。


 太平山道(タイペンサン ストリート)の脇道の壁を見ると、どこかのアーティストが描いたのだろうか、それともお店の人が遊びでデコレーションしたのだろうか。斬新で、面白いモチーフのアートがたくさん描かれている。通りぬけてしまうだけではもったいない路地アートが満開だ。いつ消されてなくなってしまうか分からない。それを覚悟で描かれたアートたちを眺めていると、香港という中華圏のど真ん中にいることを忘れてしまいそうだ。


 カラフルで、ビビットな壁面アートに囲まれて、もうエラは有頂天。こっちのアートに飛んできては、壁の前で首を左右にかしげて見入ったり。あっちのアートにへばりついては、壁面を指で触れてみたり。さながら、百花繚乱の野に舞う蝶々のように飛び回っていた。


 タイセイはだんだん、誰の楽しみで街歩きをしているのかわからなくなってきた。だいたい、なんで香港に住み働いている人の方が、香港に初めてきた旅行者の自分より、街並みに大きな関心を抱き、街歩きを喜び、楽しんでいるのか…。


 しかし重ねて言うが、本当に男は馬鹿だから、無邪気に喜んでいる女性の姿を見ると、自分も何となく楽しいかな…なんて思ってしまう。エラはそれなりの大人なのだろうが、楽しいもの、美しいものが目に映ると、周りのことを忘れてすぐ夢中になる、まるで少女のような性格であることが計り知れた。


『そういうことなら、とことん楽しませてあげるよ』


タイセイは指笛を吹いて、エラの注意をこちらに向けると、ちょっと足を速めて歩き始めた。


 太平山道(タイペンサン ストリート)は、進んでいくうちに、必列者士街(ブリッジエス ストリート)につながっていく。ここは古い建物や、学校が並び、映画の撮影などにもよく使われる地区。

 車の交通量も少ないので、リラックスしたぶらぶら歩きをつづけると、士丹頓街(スタントン ストリート)へつながる。そしてふたりは、エラが随喜するにまちがいなしのPMQにたどり着いた。


 PMQは小規模ながら、食事から、ショッピングまでなんでもござれの複合商業施設。PMQの名前はPolice Married Quartersの頭文字から取られている。つまり、ここはかつて既婚者向けの警察宿舎だったのだ。

 1951年に建築されたこの建物はシングルルーム140室、ダブルルーム28室を備え、当時のセントラル警察署からも程近い距離にある便利な宿舎で、中国人警官、といっても当時の警察は中国人以外にもイギリス人やインド人の警官も在籍していたのだが…その彼らが夫婦で住むことを許されていた。

 もっとも、本当の狙いは、より美しく環境の整った宿舎を建てることによって、多くの警察官を募り、また在籍している警官の士気を高めることにあったそうだ。

 やがて時がたち、政情も変わり、2007年までに、ここに住んでいた警察官たちは全員出て行ってしまった。以降、この場所は長い間利用計画が決まらず放置されていたが、2014年6月、歴史とクリエイティブが共存するトレンディスポット、"PMQ"として新しく生まれ変わったのだ。


 新生PMQの特徴は、何と言っても、かつて宿舎だった小部屋をショップに内装替えして、さまざまなアーティストやデザイナー、クリエーターたちがその自慢の作品を披露していることだ。

 それぞれの空間はかつて同じデザイン、同じレイアウトの部屋だったとはとても思えないほど、各オーナーのこだわりで様変わりしていた。

 それを見るだけでも、もうエラは十分ワクワクしたり、感心したり。さらにショップで、独自のセンスで世界各国から集めてきたおしゃれな商品や、ほかでは絶対に手に入らないオリジナルデザインの一点もの商品が並べられているのを見ると、もうエラは涙ぐんで、ショップからなかなか出てこない。


 さすがのタイセイも疲れ果てて、PMQ のレストラン「ISONO」に陣取り休むことにした。なるほど、このレストランでも、店内のインテリア、売られているパンやスイーツなどに、ちょっとしたクリエイティビティが感じられる。


 どれくらい経っただろうか、スケッチブックを胸に抱きしめてエラがようやくショップから中庭に姿を現した。


 中庭の見えるバルコニー席に陣取っていたタイセイにはそれが良く見えた。またもや、彼を見失って慌てているようだ。タイセイが指笛を吹いて、その存在を示す。

 彼の姿をレストランに見出した彼女は、安心したようだったが、彼のいるレストランには近寄らず、中庭の縁石に腰を掛けてしまった。それを見て、レストランの席で見ていたタイセイがやおら席を立った。


 エラは驚いた。彼が自分の存在を知っているということはわかっていた。だから今まで、後をついていくことを許してくれたことには感謝している。しかし、だからと言って彼が自分とのコミュニケーションを、積極的に望んでいるとは到底思えなかった。その彼があからさまに自分に向かって歩いてくる。なぜか、心臓が高鳴り、慌てるエラ。腰を浮かせて、逃げ出そうと思った瞬間、エラは彼に手首をつかまれた。そしてカフェレストランに引きずりこまれてしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る