628 ◆慈愛の女神(笑)

 夢と目覚めの境界線。

 一瞬前に見てた偽りの映像を現実と認識する瞬間。

 そこからほんのわずかな時間で夢の記憶は解けるように失われていく。


 あたしは目を開けない。

 夢と現実の狭間の半覚醒状態をもう少し続けたい。

 目覚まし時計に強制的に起こされるまで、この安らかな時間に浸っていたい。


 より深い安心を得るため手を伸ばす。

 枕元のどこかにあるはずの人形を探すため。

 昨日の夜も抱いて眠った、手作りのルーちゃん人形。

 あれを抱いていると、心がすごく落ち着いてよく眠れる。


 ……ない。


 もっと遠くまで手を伸ばす。

 あまり体を動かすと、意識が完全に覚醒してしまう。

 それでも、ルーちゃん人形を抱きたいという欲求の方が強かった。


 というか、やけに床がかたい。

 寝惚けて布団の外に転がり出ちゃったのかしら。

 あんな薄っぺらい布団でも、ないとやっぱり寝づらいのよね。


 脚を思いっきり伸ばしても布団は爪先にすら触れない。

 一度意識したら床の堅さが気になってもう無理。

 っていうかほとんど覚醒しちゃったし。


 あーもういいわ。

 あたしは思い切って目を開けて、


「えっ」


 自分が知らない場所で寝ていたことに気付いた。


 真っ暗な部屋だ。

 寝転がっていた床はうっすら水色。

 それ以外はひたすら黒一色で、壁があるのかどうかもわからない。


 ここ……どこ?

 あたしは一体どこにいるの?


 眠る前の記憶を思い出してみよう。

 えーと、たしか、ドラゴンに襲われて……

 って、さっきまで見てた夢とごっちゃになってるわ!


 あれ、現実だっけ……?

 フィリア市を出た記憶まではある。

 そうよ、たしかルーちゃんを追いかけて街を出たのよ。


 でもさ、ドラゴンに襲われたら、普通死ぬわよね?


 はっ。

 ま、まさか……

 あたし、死んじゃったの?


 ルーちゃんに会えずに!? 


「そんなのいやーっ!」


 力一杯絶叫する。

 自分の声がこだました。


 直後。

 こつ、こつ……という靴音が聞こえてきた。


「目は覚めましたか?」


 顔を上げる。

 目の前に人がいた。

 いったい、いつから居たんだろう。

 ヒラヒラした半透明の衣装を着た、長いの女だった。


「あ、あんたは?」

「私は……」


 彼女は閉じていた瞳を開く。

 そして、あたしの顔を見て、言った。


「あれっ!? トーコさん!?」

「は? 誰?」


 その女はもう一度あたしの顔をまじまじと見る。


「人違い……? そ、そうよね。あの人が生きてるわけないわよね……」


 一人で納得した。

 なんなんだコイツ。


「あたしはインヴェルナータよ。あんた一体何者?」

「こほん、失礼しました。私の名は……えっと、じ、慈愛の女神、ミサイアです」

「女神ぃ?」


 こいつ、頭大丈夫か?

 確かに美人ではあるし、服装も普通じゃない。


 けど、言うにことかいて女神とは……

 自分で言ってて恥ずかしくないのかしら?


「あの、もしかして、疑ってませんか?」

「疑うもなにも、変なやつだとしか思ってないわ」

「えっ、どういうこと? ミドワルトの人って信仰心が強いんじゃ……」


 あたしは別に信仰心なんて強くないけど。

 つーか教会の神父だって、いきなり現れた女が女神なんて名乗ったら疑うと思うわよ。


「あんたのことはどうでもいいわ。それよりここはどこなの?」


 さっきのが夢じゃないとしたら、あたしはドラゴンの炎にやられたはずだ。

 普通に考えれば、あの状態から無事に助かったとは思えない。

 なのに火傷のひとつすらないのはどういうわけ?


「ここは神々の世界ヘブンリワルト。インヴェルナータさん、あなたはドラゴンのブレスに焼かれて一度死んだのです。これからはこの世界で新しい人生を――」

「はあ!?」


 あたしは自称女神に掴みかかった。


「死んだってどういうことよ!?」

「で、ですから、ドラゴンのブレスに焼かれて……」

「ふっざけんな! さっさと元の世界にもどせ!」

「待ってくださっ、そんな強く引っ張ったら――」


 自称女神の来ていた半透明の服が音も立てずに裂けた。

 その下から彼女が来ていた白いワイシャツが出てくる。


「あー! せっかくがんばって作ったのに!」

「服なんてどうでもいいから、あたしを生き返らせろーっ!」

「ごめんなさい、嘘です! あなたは死んでないです! もう引っ張らないで!」

『あはははははっ!』


 いきなり闇の中から笑い声が聞こえてきた。

 驚いて辺りを見回すけれど、暗くて何も見えない。


『じっ、慈愛の女神、ミサイアっ……! なにそれ……! しかも変な人だと思われてるっ……!』

「ちょっとアオイさん! 笑わないでくださいよ!」

『ここまで疑われたらもう騙すのは無理でしょう。明かりつけるわよ』

「あっ、待って――」


 視界が一気に明るくなった。


 周囲はどこまでも続く闇なんかじゃなく、そこそこ広い円形の部屋だった。

 天井には輝光灯らしい人工の明かりが眩しいくらいに輝いている。

 部屋の端には黒い箱形の機械が釣り下がっていた。


『あー、笑わせてもらったわ。貴女って意外と笑いのセンスあるのね』

「笑いをとったつもりはありません。そもそも、穏便に事を済ますために女神様のフリをして騙してこいって言ったのはあなたじゃ……」

『あ、ちょっと待って』


 あの黒い箱はどうやら風話機みたいなものらしい。

 どこか別の場所にいる人物が喋って、あそこから声が出ているんだ。

 状況はいまいち飲み込めないけど、とりあえず死んだわけではないみたいね。


「まったくあの人は……あ、ゴメンなさいね、インヴェルナータさんでしたっけ? 別に騙すつもりはなかったんですけど――」


 やれやれと肩をすくめる自称女神。

 あたしはポケットから素早く筒を取り出した。

 背後に周って左手で自称女神の服を掴み、伸ばした光の棒を近づける。


「動いたら当てるわよ。言っておくけどこれ、ただの光る棒じゃないから」

「ちょ、ちょっと待って下さい。まずはゆっくり話し合いましょう」

「話すことなんてない。いいからあたしを元の場所に……」

「わかりましたから、落ち着いて!」

「――えっ?」


 自称女神は強引にあたしの拘束から逃れた。

 かなり力を入れて掴んでたつもりだったのに……


「ちゃんと説明しますから。話を聞いて」

「たあっ!」


 脳天狙いで全力で打ち込む。

 剣闘で言うところの『頭打ち』って技。

 ノーモーションからの奇襲はあたしのいつもの必勝法だ。


 けど。


「騙そうとしたのは謝りますから! とにかく落ち着いてください、ね?」


 確実に当てるつもりで打ったあたしの打撃は、あっさり止められてしまった。

 自称女神は光の棒ではなく、それを持つあたしの手首を掴んでいる。


「ぐっ……」


 攻撃を見切られたこともショックだったけど、それより恐ろしいのはこいつの力。

 あたしの腕を掴む手はまるで万力のように締め付けて動かない。

 人間とは思えないような腕力だ。


 なんなのよ、こいつ……!


「あ、電話。ちょっと待ってください」


 自称女神は右手であたしの腕を掴んだまま、スカートのポケットから小さな板を取り出した。


「はい、こちらみさ――え? あ、はい、はい……わかりました」


 板を耳に当てたまま、なにやら独り言を呟いている。

 それが終わると彼女はようやくあたしの腕を放した。


「痛っ……」

「あっ。ご、ごめんなさい、大丈夫ですか?」


 ぜんぜん大丈夫じゃない。

 掴まれた部分が赤くなっているわ。

 いったいどんな馬鹿力してるのよ、こいつ……


「えっとですね、上の人間からあなたを連れてくるように言われたので、一緒に来てもらいたいんですけど、いいでしょうか……?」


 奇襲が通じないんじゃどうしようもない。

 いまは下手に出てるけど、こいつは間違いなく強い。

 ここは大人しく言うことを聞いておいた方がよさそうだ。


「わかったわ。けど、ひとつだけ聞かせて」

「はい。なんでしょう?」


 こいつが何者かとか、ここはどこかとか、気になる事はたくさんある。

 けど、それよりもハッキリさせておかなきゃいけないことがある。


「あたしは元の場所に戻れるんでしょうね?」


 なにせルーちゃんに会うため街を出たばかりなんだもの。

 正直言って、こんな所で道草食ってる暇はないのよ。


 自称女神は少し困ったような顔でこう答えた。


「それは、うちの上司次第です」

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