537 ▽放蕩王子

 柔らかな風が吹いていた。

 草木が茂り、虫たちがひっそりと息づく、小さな庭園。

 塀の外の世界など知るよしもなく、隔離された空間にだけ与えられる、閉じられた安寧。


 それは、この中庭だけに限ったことではない。


「王子! アルジェンティオ王子!」


 野太い声が響く。

 驚いた花びらの蜜を吸っていた蝶が飛び立った。

 立派なヒゲを讃えた無粋なる闖入者によって、閉ざされた楽園は静寂を破られた。


「ここにも居らぬ……まったくあの放蕩王子、今度はどこで遊んでいるのか!」


 全身に身につけた宝石をジャラジャラと鳴らしながら、この国の大臣のひとりであるヴァーロは中庭から立ち去った。


 その後はまた、虫たちが楽園の主となり自由を謳歌する。

 庭園の片隅、うっそうと茂った草むらが音を立てた。

 その中からひょっこりと一人の青年が顔を出す。


「ったく、爺さんはしつこいんだから」


 端整な顔立ちの美丈夫である。


 王家御用達の一流の仕立て人が拵えた豪奢な装飾の衣服を着纏っているが、その仕草や振る舞いはまるで、イタズラ少年のよう。


 この青年こそがファーゼブル王国の第一王位継承者。

 後の英雄王、アルジェンティオ王子である。




   ※


 時は新代歴九七二年。

 すでに最初のウォスゲートが開いてから、三十年以上の時が過ぎていた。

 世の中にはエヴィルと呼ばれる異界の魔物が溢れかえり、冒険者たちが立身出世や名誉のために各地で活躍をしている時代である。


 とは言え、このファーゼブル王国はウォスゲートが開くことも少ない。

 ましてや城壁に囲まれ、輝鋼石の庇護を受けた王都エテルノ。

 ここは常と変わらぬ平和な様相を呈していた。


 街の雑踏の中からは、どこそこの隊商が襲撃を受けたなどの不穏な噂が聞こえてくる事もあるが、市民はみなどこか他人事として感じているような安穏とした空気が流れている。


 午後の喧騒が飛び交う中、平服に着替えた王子は一直線にある店を目指した。


「おいーっす」


 常に半開きになっている木戸を押し開け、城内ならば即座に教育係の叱責が飛んでくるだろう乱暴な挨拶の言葉を投げかける。


「おう、イタズラ坊主。また来やがったのか」

「へへへ……」


 大柄な戦士が親しみの込もった声で返してくる。

 それはどう見ても王族に対しての態度ではない。

 が、王子は男の態度をまったく気にしなかった。


 なにせ、ここの人間は誰も自分をこの国の王子だと知らないのだから。

 王族がこのような町外れの酒場に顔を出すことが、まず常識はずれなのだ。


「よおオッチャン。昼間っから酒浸りじゃ、せっかくの剣の腕が鈍っちまうぞ」

「うるせえクソガキ。デッカいクチはキュオンの一匹でも狩ってから叩けってんだ」

「なあなあ、この前パーティ組んで北の山に行ったって言ってたろ。その時の話聞かせてよ」

「また今度な」


 顔見知りに適当に挨拶した後、一番奥のカウンター席に腰掛けて、店のマスターに声をかける。


「よっ、マスター。いつもの一杯」

「……今度はどんな理由で抜け出してきたんですかい、王子」

「王子はやめろって。ここじゃ新米冒険者アルディだから」


 マスターはため息を吐きながら、冷たいミルクティーを差し出した。


 この『アルディ』というのは、アルジェンティオ王子が外で勝手に名乗っている名前である。

 アルジェンティオは自分で考えたこの名を非常に気に入っていた。


 アルディの顔を知っている人間は街中には少ない。

 いくら傍若無人な冒険者たちとは言え、王族に対する態度くらいは心得ている。


 アルディは身分のせいでここの自由な空気が破られてしまうことが嫌だった。

 なのでマスター以外には正体をバレないように注意を払っている。


 この酒場は冒険者のたまり場である。

 と言っても、国営の冒険者ギルドとは違う。

 それは街の中心部近くに別にちゃんと存在する。


 一流の冒険者たちはみな冒険者ギルドのサロンに集う。

 ここに集まっているのは、日雇い業務で小銭を稼ぐ三流冒険者がほとんどだ。

 気分が向いた時だけギルドに仕事を受注しに行き、後は適当に散財しつつ気ままに暮らす。

 そんな、半端者たちの憩いの場である。


 アルディはこの酒場の空気が気に入っていた。

 城を抜け出して城下を散策するのは彼の趣味である。


 このすえた匂いと、無骨な男たちが集まる猥雑とした雰囲気が心地良い。

 名前を偽ってここに入り浸るようになってから三ヶ月が経っている。


 マスターにだけは事情があって正体がバレているが、他の人たちには秘密である。


「つまんない話はいいよ。それより、今度パーティ組んで一緒にキュオン退治に行こうぜ。俺、ずいぶんと腕を上げたんだぜ」

「キュオンなんて十年早いです。駆け出し冒険者を名乗るなら、分相応に同年代の仲間と協力して、暴れウサギでも狩ってなさい」


 エヴィルが跋扈し、人間の生活圏はそれ以前と比べてかなり縮小した。

 結果として異界の魔物の他にも、凶暴化した野生の獣が野に溢れるようになった。


 理由は解明されていないが、エヴィルが襲うのは人間のみである。

 それ故にエヴィルは人類の敵などと呼ばれており、最もありふれた魔犬キュオンですら人間にとっては怖ろしい脅威になっている。


 駆け出し冒険者はまず、凶暴化した野生の獣狩りから始めるのが当然だった。

 その中でもウォスゲートの影響で凶暴化した獣は、エヴィルや通常の野生動物と区別する意味で『凶暴化した獣イーバレブモンスター』などと呼ばれている。


 略称はイーバレブ。

 後にこの語は意味が拡大。

 冒険者の間では、エヴィル以外の生物脅威の総称となった。

 人の道に外れた盗賊もイーバレブと呼ばれ、駆逐すべき対象とされることがある。

 冒険者にとっての敵は異界から来た魔物エヴィルそれ以外の脅威イーバレブかに二分される。


「だからマスターに頼んでるんじゃん。クラスBの凄腕モンクだったあんたがいりゃ安心だからよ。俺はどうしてもキュオンを間近で見てみたいんだ」

「城へ戻れば頼りになる王宮輝士がたくさんいるでしょう。何度も言いますが私は冒険者を廃業しましたので、もうエヴィルと戦うつもりはありません」

「そこを曲げて! な、お願い!」


 カウンターに両手をついて頭を下げる。

 マスターは大きくため息を吐いた。


 お忍びとはいえ、この国の王子の言葉である。

 命令という形を取ればマスターは嫌でも首を縦に振らざるを得ない。

 しかしこの青年は、身分を盾に強引に言うことを聞かせるようなことを決してしない。


 故に『お願い』をする。

 王族としての態度ではないが、根は素直な好青年なのだ。


「仲間を募集するならこんな安酒場じゃなく、冒険者ギルドにでも行ったらどうですか。依頼を受注しなきゃ、いくらエヴィルやイーバレブを狩っても、収入にも実績にはなりませんよ」

「ギルドとか加入手続きが面倒いし。役員の上のやつに顔を知られてる可能性もあるじゃん。それに俺は金が欲しいんじゃなくて、冒険がしたいんだよ!」


 冒険者とは自ら名乗りを上げればそれでなれるものである。

 しかし、基本的には公営のギルドに所属するのが一般的だ。


「とにかく、今の私はこの店のマスターなのです。個人的な理由で職務を放棄しては大事なお客様たちにも申し訳がありません。残念ですが情に訴える方法は諦めて下さい」

「ちぇっ、もういいよ」


 立場に相応しい行動をすべきと暗に忠告するマスターだったが、アルディはそこで話を打ち切り、カウンターに頬杖を付いてふてくされた。


「おうアルディ。仲間を探してるなら俺を雇うといいぜ。日当は八千エンでどうだ?」


 背後から酔っ払った冒険者が声をかけてくる。

 店の常連で、いつも昼間から入り浸っている男である。


「悪いけど、夜勤明けで昼間っから飲んでるエセ冒険者とか興味ないから」

「フン。夜間警備だって立派な冒険者の仕事だぁ。お前もそのうち理解するぜ」


 にべもなく断るアルディに唾を吐いて、男は奥の席に戻って行った。


「委託業務で食ってるだけの分際で偉そうに。ああはなりたくないね」

「言わないでやって下さい。あれでもマジメに働いているだけ立派なんですから」


 冒険者の仕事はエヴィルやイーバレブの討伐だけではない。

 ギルドに登録すると、それぞれのランクにあった日雇いの仕事が受注できる。

 中には危険を冒して戦いに赴くこともなく、あの酔っ払いのように都市内の労働業務だけで生計を立てている者もいる。


 国がギルドを設立すると同時に始めた雇用対策の一環でもあるが、言ってみれば使い勝手の良い底辺労働者の斡旋である。


「うちに多少なりともマトモな冒険者が集まるのは夜間だけですよ。この時間は皆、ギルドで任務を受注して表に出ていますから」

「そりゃあそうだろうなあ」


 アルディは椅子から立ち上がった。

 ミルクティーを一気飲みし、ポケットから無造作に金を取り出しカウンターに置く。


「釣りはいらないよ。それじゃな」

「……毎度」


 労働者の三日の稼ぎにも匹敵する金額である。

 マスターは他の客に見られる前に素早く懐にしまった。


 アルディは別に口止め料を払っているつもりはない。

 単に彼の金銭価値が一般人とはズレているだけである。


 それを黙って受け取るあたり、冒険者上がりのマスターもしたたかであった。

 アルディはカウンター横に置いた剣を腰に下げ、薄暗い雰囲気漂う場末の酒場を後にした。

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