489 ▽恨みは水に流して

 帰りの船中、ラインは遠ざかっていく島を眺め、


「♪んふふ〜、ん〜」


 調子外れな鼻歌を口ずさむほど浮かれていた。


「ずいぶん嬉しそうだね」


 カーディナルはそんなラインに話しかける。

 幼少モードの彼女は船室から持ってきた椅子に腰掛けていた。

 膝上には厳重に防腐封術された小箱があり、中にはエルデの心臓が入っている。

 新代エインシャント神国に戻ったら、すぐにこれを使って新たな肉体生成を行うのだ。


「そりゃ嬉しいですよ、ようやく自由の身になれるんですから!」


 本音を隠そうともしないメガネ。

 カーディナルは黙って席を立った。

 横に回り込んで脛を思いっきり蹴ってやる。


「痛いです! なにするんですか!」

「うるさい」


 最後なので今まで世話になった礼くらい言おうかとも考えていたが、そんな気分は一発で吹き飛んでしまった。

 まあ、こいつにとって自分など、厄介者以外の何物でもなかったのだろう。


 ふと風がざわついた。


「あっ……!」


 ラインが気付いて姿勢を正す。

 その場にいるだけで圧倒的な存在感のある女。

 赤毛の戦士、ヴォルモーントがいつの間にか傍に立っていた。


「おつかれ」

「お、お疲れさまです! この度の任務、たいへんお世話になりました!」


 なにやらメガネが勘違いして慇懃な返事を返す。

 赤毛の視線はもちろんカーディナルに向けられていた。


「大賢者から聞いたんだけど、アナタも向こうに行くんだってね?」


 向こう、という言葉が何を指すかは聞くまでもない。

 ウォスゲートの向こう、エヴィルたちが住む異界のことである。


「不服なの?」

「別に。それがあれば全盛期の頃の力が戻るんでしょ?」

「グレイ次第だから確証はないけどね」

「歓迎するわ。国のしがらみでどこぞの二流輝士を同行させるより、アンタの方がよっぽどマシだもの。役立たずのお守りはゴメンだしね」


 予想すらしていなかった赤毛の言葉に、カーディナルは目を細めて訝しんだ。


「意外だね。てっきり邪魔をする前に始末するとでも言うと思ってたよ」

「人を殺人鬼みたいに言わないでくれない。任務でもないのに無駄な争いはしないわよ」


 ヴォルモーントは大げさに肩をすくめた。

 彼女の態度に敵意は見られない。


「アタシはアンタを個人的に嫌ってるわけじゃない。これから肩を並べて戦う仲間なら、いがみ合ってても仕方ないじゃない? お互い過去は忘れましょ」

「おまえが以前にわたしを殺そうとした事も水に流せと?」

「そういうこと」


 勝手な言いぐさである。


 あの時、カーディナルは残存エヴィルの活性化を感じて行動を開始した。

 まだ何をするでもなく、人里に降りた直後のことである。


 この女は問答無用で消滅直前になるまでズタボロにしてくれた。

 そりゃあ、こいつだって上の命令を受けただけだろう。

 だからといって、あの仕打ちは決して忘れない。


 肉体を失ったことで、これまで散々苦労してきたのだ。

 心情的にはあっさりと許したくないのだが……


「それに、目的は一緒なんでしょ?」

「……ああ」


 確かにこいつは気にくわない。

 しかし、その戦闘力だけは認める。


 大いなる目的、完全なる安らぎのためには、強い仲間が不可欠だ。

 新しい肉体を得て、当時の力を取り戻したとしても。

 カーディナルひとりでそれは達成できない。


「神都に戻ったら忙しくなるわよ」


 すでに島の明かりは見えない。

 空は曇っており、星灯りもない夜だ。

 船の周りには真っ暗な海だけが拡がっていた。


 不安を煽り立てるような暗闇を裂いて、船は新代エインシャント神国のある本土へと向かう。


 魔動乱のやり残し。

 約束されたエヴィルの再攻勢。

 それを食い止めるため、選ばれし者たちは異界へ旅立つ。


 利害が一致するのなら喜んで力を貸そう。

 人類の反撃が、もうすぐ始まる。

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