469 ▽幼少期の記憶・後
ジュストが十歳になったある日。
ソフィが熱を出して寝込んでしまった。
彼女はうなされながら、ずっとこう呟いていた。
「天恵草がほしい……」
それは物語に描かれる伝説上の植物で、煎じて飲めば万病に効くと言われている。
ソフィは病に倒れる直前まで、これを求めて旅する少年の本を読んでいた。
高熱で物語と現実がごっちゃになっていたのだろう。
ソフィの病はただの流行り病だった。
きちんと栄養を取れば数日で治る程度のものだ。
フレスも一月ほど前に同じ病で苦しんだが、ゆっくり療養したら三日で元気になった。
「うん、きっと手に入れてくるから」
しかし、幼いソフィの願いを、フレスは真剣に聞いた。
同じ苦しみを味わったからこそ、末の妹の願いを邪険に扱うことができなかったのだ。
天恵草は物語の中にしか存在しない架空の植物である。
が、モデルとなった植物はアルタ山の中腹に生えている。
それは希少だが万病に効くといった効果はない。
その草を自分で取ってきて、ソフィに見せてあげよう。
それで彼女の気が休まるのなら価値はあると考えたのだろう。
アルタ山は野生の動物も多い。
小さい子がひとりで行くには多少の危険がある。
ましてや体力に劣るフレスでは、村から往復するだけでもかなりの重労働だ。
「ぼくが行くよ」
スティの「男だったらあんたが行きなさい」という言葉を受けて、ジュストはその草を取りに行く役を引き受けた。
「危険よ、やめなさい」
「平気だよ!」
ローザは反対したがジュストは突っぱねた。
普段は気にしないふりをしていたが、内心では弱い男と言われるのを嫌がっていたのである。
「わかったわ。その代わり私も一緒にいくから」
結局、ローザが一緒に着いてくることになった。
実際の所、大した冒険をするわけでもない。
ローザなら自警団の見回りでいつも通っている場所だ。
ジュストはローザと二人で、軽いピクニック気分で出かけることにした。
事件はその直後に起こった。
※
普段の生活範囲から一歩踏み出せば、そこは草木生い茂る野生の地。
意気揚々としていたジュストも、見慣れない景色を前にすっかり萎縮してしまった。
出発前は強がって見せたが、当時のジュストは気の弱い少年である。
ローザが一緒にいてくれなければ方向感覚すら失い、道に迷っていたかもしれない。
ジュストはそんな自分を情けないと思う反面、改めてローザに対して尊敬の念を抱いた。
目的の草はなかなか見つからなかった。
「今日はもう諦めて帰りましょう」
「いやだ。せめて、日が暮れるまで探す」
諦めるよう諭すローザ。
ジュストは首を縦に振らなかった。
せっかくわざわざ手伝ってもらったのに。
目的を達成できず帰るなんて、あまりにカッコ悪すぎる。
だが、それがいけなかった。
日が暮れ、山の端がオレンジ色に染まる頃。
それは突然現れた。
一見した印象は狼のよう。
しかし、その体躯はかつて一度だけ毛皮の姿で見た、本物の狼よりもはるかに大きい。
縦に裂けた口は少年を丸呑みにできるほどに大きい。
見た者に恐怖を染み付ける、禍々しい紫の体毛に覆われた身体。
エヴィルという名すら当時は知らなかった。
もちろん、大変な時代だということは大人達から聞いていた。
しかし彼の生活圏においては世の中が荒れている実感はなく、どこか遠い世界の話と思っていた。
エヴィルはファーゼブル王国などの、人口の多い大国の領土にばかり出現する。
それらは大国の輝士団が討伐することもあれば、この時代に名を馳せた数多くの冒険者たちが退治することも多かった。
周辺諸国は彼らが打ち漏らしたエヴィルが自領に逃げ出こんだ時だけ警戒すればよかった。
ファーゼブル王国とシュタール帝国の両大国の間に位置し、両国からの庇護を受ける形になっていたクイント国の民たちは、致命的に危機感が足りていなかったのである。
このエヴィルはファーゼブル王国との国境付近に現れた集団の生き残りであった。
その多くは輝士団に討伐されたが、何匹かが打ち漏らされていた。
生き残った者は追われるようにクイント国領に逃げ込んだ。
輝士団はこの時すでに討伐隊を編成していた。
しかし、彼らは国境付近の町の防衛に専念するばかり。
山中に逃げ延びた個体まで積極的に追いかけようとはしなかった。
この危険度最大級の警戒情報は、山奥の村にまで伝えられることはなかった。
「ジュスト、急いで村の方に走りなさい」
ローザは冷静さを失わず、正しい判断を下した。
ジュストを背中に隠し、自らが囮となることで、彼に逃げるよう指示をする。
「いやだ。ローザを置いて逃げられない」
だが、ジュストは言うことを聞かなかった。
ローザはそんな彼に優しく諭すよう語りかけた。
「一緒に逃げたら二人とも食べられちゃうの。だから早く村に戻って助けを呼んできて。大丈夫、お姉ちゃんは強いんだから、少しだけなら持ちこたえられるよ」
「……わかった」
ローザの言葉に勇気付けられて、ジュストは村へと一目散に駆けた。
ジュストがひとりで走れたのは、ローザの言葉を信用したからだ。
実際、ローザは村一番の武術の達人でもあった。
亡くなった彼女の父はかつて剣術修行をしながら諸国を漫遊していたと聞く。
村に落ち着いてからも、妻の目を盗んではローザに剣の手ほどきをしていたらしい。
普段の柔らかい気性からは想像もできないが、おかげでローザは今のジュストと変わらない歳の頃には、すでに村の大人たちを圧倒する腕前を持っていた。
十五歳の時には村の近くに出没した狼相手に一歩も怯まず戦い、見事に退治してみせたという伝説まで作っている。
スティも彼女に憧れて剣術を始めたが、まだまだ足元にも及んでいない。
ジュストはローザの強さを知っていた。
今日もローザは長めのナイフを持っている。
ただの獣相手なら、簡単にやられるはずはない。
でも、今度の相手はかなり大きい。
万が一の事を考えて、急いで村に知らせないと。
ぼくがローザを助けるんだ。
その一心でジュストは精一杯走った。
「たいへんだ、怪物があらわれた!」
村に着き、畑仕事をしていた大人たちに状況を説明した。
当然、すぐにみんなで助けに行ってくれるだろうと思っていた。
「え、エヴィルが出没しただって!?」
「どうなってんだよ、こんな辺境の山奥に……」
「どうする、どうする?」
しかし大人たちは慌てるばかり。
ジュストはそんな彼らの姿に不安を覚えた。
相手がただの獣なら、ローザも負けることはなかっただろう。
だがエヴィル相手ではそうもいかない。
相手は鋼の皮膚を持つ魔獣なのだ。
生身の少女が勝てる道理はない。
それは村の大人たちにも言えることだった。
大人たちはいつまで経っても救出活動を行わなかった。
村内会議と称しては、長々と意味もない話し合いを続けていた。
不甲斐ない彼らに業を煮やしたジュストは、意を決してついに一人でローザの所へと戻った。
そして、彼は見た。
紫の体毛を赤黒い血で染めて佇むエヴィル。
その傍らに横たわる、原形を留めない程に壊された、大好きなお姉ちゃんの姿を――
※
目を覚ました時、ジュストは青年の腕に抱えられていた。
知らない男の人。
その瞳はどこか悲しげだ。
一体何が悲しいのだろう?
ジュストはそんなことを呆然と考えていた。
頭がボーっとして、まるで夢の中にいるような感覚。
唐突にさっきの光景を思い出し、吐き気がこみ上げてくる。
とんでもない悪夢を見た。
……悪夢?
成年に抱かれて帰り着いた村。
彼が見たのは複雑な表情で沈む大人たち。
この世の終わりのような表情で泣き喚くフレス。
ジュストはそれが悪夢でなく、現実だったことを知った。
ローザは死んだのだ。
そして……
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