129 ▽あたしが怒ってないとでも

 ドキドキしながら待つこと十数分。

 教室の戸が開くたびにドキリとすること十回以上。

 そのたびにルーチェは落胆と安堵を感じずにいられなかった。


 居心地の悪い緊張感が続く。

 ナータは何をするでもなく窓の外を眺めていた。

 二人の間に会話はない。

 そろそろこの沈黙にも慣れてきたと思った頃。


 ついにジルが教室に入ってきた。

 隣にはターニャも一緒だ。

 二人ともどことなく表情が暗いのは昨日のことを気にしているからか。


 昨日の今日じゃ仕方ないと思う。

 でも、あんなに張り詰めた空気を出してちゃナータは上手く話しかけることができるんだろうか。

 ルーチェが心配になっていると、がたりと椅子を鳴らしてナータが席を立った。

 

 ナータは迷いのない足取りでジルに近寄っていく。

 少なくともルーチェの目にはナータが緊張しているようには見えなかった。

 気づいたジルがあからさまに不機嫌な表情でナータを睨み付けた。


 二人が教室の入り口で向き合った。

 ターニャはジルの背後に回り、彼女の制服の袖を軽く掴んで何か囁いていた。

 ケンカはしないでねと言ったのかもしれない。


「何だよ」


 ナータが何も言わないのでジルが先に口を開いた。

 その声は刺々しかった。

 教室中の生徒たちが一斉にジルとナータに注目する。


 二人の周囲には張り詰めた空気が漂っている。

 どう見ても仲のいい友だち同士がおしゃべりをしているようには見えない。

 しかも片方があのジルなのだ。

 彼女のことを知っている生徒たちは一様に息を呑んでいた。


 相手はあの外部生。

 二人の間に何があったのかはっきりと理解している生徒はいないだろう。

 しかし皆ただ事ではない空気を感じ取っている。


「昨日は」


 おずおずとナータが口を開いた。

 昨日の教室で質問攻めにあっていた時の明るいトーンとはまるで違う、凍えそうに低い声。

 周囲の温度が一度くらい下がった気がした。


「悪かったわ。シツレイなこと言って。ケンカを売るつもりはなかったの」


 わ。やった!

 跳び上がって喜びたい気分だった。

 ちょっとぎこちなかったけれど、ナータはちゃんと謝ってくれた。


 ひょっとしたらまたケンカになるんじゃないかと心配していた。

 ルーチェは胸の仕えが取れたようにすっきりした気分だった。


 これであとはジルが「気にしてないよ」って許してくれれば、それで仲直り。

 さっぱりして気のいいジルなら謝った相手を責めるようなことはしない……

 と、ルーチェは考えていたのだが。


「へえ? やっぱりアレ、ケンカ売ってたんだ?」


 え?


「そうかそうか。あたしゃケンカを売られる覚えなんかないから、もしかしたらあたしの早とちりなんじゃないかとか好意的に考えてもみたけど、やっぱケンカ売ってたのか」


 ジルの答えはルーチェの予想を裏切るものだった。

 必死に怒りを堪えているのが手に取るようにわかる。


「ムカつくわ。何で身に覚えのないケンカを売られなくっちゃいけないわけ? しかも悪かっただって? そう言えば許してもらえるとでも思った? それともあたしが少しも怒ってないとでも? 悪いと思ってるなら頭でも下げたらどう? おまえ頭悪いんじゃないの?」

「……なんですって?」


 ナータの声色が変わった。

 その途端、ルーチェの背中にゾッと寒気が走る。

 きっとナータはまた、あの氷のように冷たい目をしている。


 このままじゃまたケンカになってしまう。

 しかもここは学校。

 問題を起こしたら停学や退学もあり得る。

 絶対に止めなきゃならない。


 心臓がバクバク鳴っている。

 でも構っていられない。

 二人に近寄ろうとした瞬間、ナータがふいにこちらを振り向いた。


 彼女は穏やかににっこりと微笑んでいた。

 ルーチェは動きを止めた。

 ナータは笑顔なのに何故か不安がこみ上げてくる。


「そうだね。ただで許してもらおうなんてムシがよすぎるよね」


 ナータがジルの方に向き直った。

 ジルもナータの態度をおかしく思ったのか怪訝な表情で彼女を睨み返す。


「プレゼントがあるの……受け取ってよね!」


 突然ナータが上げた大声にびくりと身が竦んだ。

 一瞬の間の出来事だった。

 ナータが素早く黒板消しを引っつかみ、ジルの顔面めがけて思いっきり投げつけたのだ。


 止める間もなかった。

 ジルは素早くガードして直撃を防いだけどさすがに舞い散る粉までは避けようもなく、頭から真っ白になってしまった。


 教室中があっけに取られていた。

 昨日、あんなにクラスの人気者だったナータの突然の暴行。

 しかも相手は格闘技道場の娘であるジル。

 いち早く青ざめたのはルーチェとターニャ。

 続いて彼女の家柄と中等学校時代前半を知る学生たち。


「昨日のお返しよ。ざまみろ」


 ナータの声は恐ろしいほど冷え切っていた。

 ジルが拳を振り上げるのが見えた。

 なんとかしなきゃ!

 ルーチェは弾かれたように飛び出した。

 が、


「ジルっ!」


 突然の大声に足が止まる。

 声の主はターニャだった。

 大人しい彼女のものとは思えない凛とした声色だった。


 ジルの拳が止まる。

 その隙にルーチェはナータの正面に回り、しっかりと両肩を掴んだ。


「なにやってるの!? 昨日のこと謝るんじゃなかったの!?」

「ルーちゃ……」

「なんでこういうことするの!? ジルさんがいったい何をしたっていうのよっ! 私の友達なのに、ナータとだって仲良くして欲しいのにっ!」

「あ……」


 ナータの表情が悲しみの色に変わっていく。

 けれどもあふれ出る感情をとめられない。


 ゆっくり待つって決めたばっかりなのに。

 私が怒っちゃダメなのに。


「なんでよっ! 昔のナータはそんなじゃなかったのに! あんなに優しくて、友だち思いだったのにっ! どうしてこんなことするようになっちゃったの!? なんでっ! そんなナータなんて私――」

「やめて!」


 最後まで言い終わる前に思いっきりナータに突き飛ばされた。

 幸いジルさんが受け止めてくれたおかげで怪我はない。

 でも。


 ルーチェは驚いた。

 突き飛ばされた衝撃よりも、ナータに暴力を振るわれたということよりも、


「あっ……」


 自分を突き飛ばしたナータの方が今にも泣き出しそうな表情をしていることに。


「ご、ごめっ、あた、あたしっ」


 彼女は自分の手とルーチェの顔を交互に見ている。

 ナータは完全に取り乱していた。

 何も言葉が出てこない。

 ルーチェは目を丸くしてナータを見つめていた。


 ぽろり。

 涙がこぼれた。

 とても弱々しく見える、ナータの目から。


 ナータは背を向けて教室の後ろのドアから走り去ってしまった。

 教室中の誰もがあっけにとられていた。

 黒板消しをぶつけられたジルですらナータの奇妙な行動に呆然としている。


 えぇ……

 なんで?

 ナータが教室を飛び出してから数秒。

 ようやくまともに頭が働き始めたルーチェはまず疑問に思った。


 なんでナータが泣くの?

 泣くなら私の方じゃない? 

 別に突き飛ばされたくらいで泣いちゃうほどヤワでもないけどさ。

 そういえば私、ナータに突き飛ばされた?

 何か悪いこと言ったのかな。

 どうしよう。私もキラわれちゃったのかな。


 自分が暴力を振るわれたことより、知らず知らずのうちに彼女を傷つけてしまったんじゃないかということの方が気になった。

 何かに支えられていた体が起こされる。


「とりあえず怪我がないならどいてくんないかな。髪洗いに行きたいだけど」

 

 チョークの粉で真っ白になったジルが当惑の表情で言った。

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