2-1 探偵の住所
「ここを、俺たちの『ベーカー街221B』とする!」
二階の窓から街路を見下ろしながら、ホームズは宣言した。
「え? ここは『フレックス通り1番地23』だけど?」
テーブルを拭いていた手を止めて、ワトソンが顔を向けた。くるりと振り向いたホームズは、
「それはそれとして、『ベーカー街221B』という名前も胸に刻んでおけ。ここの『魂の住所』だ」
「ふーん」
さほど興味なし、とばかりに、ワトソンは布巾を扇状に動かす作業に戻った。
『死の魔法殺人事件』を解決したあと、ホームズはアルファトラインに連れられて、町の中心部に位置する建物の二階へ案内された。黒髪を肩まで伸ばした褐色の肌の少年、ワトソンも当然一緒に。そこは二人の住居兼事務所としてアルファトラインが用意した下宿先だった。ここに来て数日、ホームズとワトソンは、必要な家財道具や日用品を買い求め、殺風景な部屋を「探偵事務所」に変える作業に従事していた。
アルファトラインは、そこに「ホームズ探偵事務所」の名前を与え、あらゆる事件の調査や、不可思議な出来事の謎の解明を生業とする場所であることを、有識者や王侯貴族の知人らに喧伝して廻るとも約束してくれていた。売り文句は、「真賢者ブラウの
下宿先が建物の二階で、さらに、その下宿の経営者が女性だと聞かされたホームズは、「もしかして、そのご婦人は『ハドソン』というお名前ではありませんか?」と色めき立ったが、女性の名前は「リタ」だと答えられ、「そんな偶然が続くわけはありませんよね……」と肩を落とした。
「ホームズさん、ワトソンさん、休憩にしましょうか。果物でも切ってきますよ」
換気のため開けっ放しにされていたドアの向こうから、そのリタが顔を覗かせた。
「ああ、リタさん」
声を聞いてホームズは振り向いた。
リタは、年の頃六十代程度の、いつもにこにこと微笑みを絶やさない、着ているものは質素ながらも、気品と清潔感をまとっている小柄な女性だった。ただ、彼女が身につけているものの中で、ただひとつだけきらびやかに輝いているものがあった。左手薬指にはまっている銀色の指輪。ホームズの視線がそこに注がれているのに気付いたのだろう、リタは、
「結婚の記念に、夫から贈られたものです」
その指輪にそっと触れた。
「そうですか。既婚者でいらっしゃるんですね。残念です」
ホームズは笑みを浮かべ、リタも少し吹き出してから微笑んだ。
「結婚相手に指輪を贈るなんて、お金持ちや王侯貴族の方々しかしない習慣ですのに、あの人は見栄っ張りでしたから……」
結婚相手のことを過去形で語ったことにホームズは気付き、はっとしてリタの目を見ると、彼女も目を合わせて、
「この前の戦争で亡くなったんです」
「戦争……何とかという大戦ですか」
「第二次
横からワトソンが補足した。
「あっ、そうそう、果物でしたね」しんみりとしてしまった空気を振り払うように、ホームズはことさら明るい声を上げて、「もちろん、いただきますよ」
「僕も」
ワトソンも返事をすると、ホームズは窓外を見下ろす体勢に戻った。と、
「ああ、待って下さい、リタさん」ホームズは階下に下りていこうとしたリタを止めて、「もうひとり分、追加をお願いします」
と微笑んだ。
ホームズは、この建物の手前に一台の馬車が停まったのを目にしていた。御者が素早く石畳の路面に下りて客車のドアを開くと、中からひとりの若い女性が顔を覗かせ、ゆっくりと自分も石畳に足を下ろした。御者は恭しく一礼すると再び御者台に跳び乗り、姿勢をくつろがせる。どうやら下りた女性が用事を終えるのを待ち、再び乗せていくようだ。その女性は、目の前の建物――すなわちフレックス通り1番地23』の表札を目に留めると、間違いない、というように頷いて、ドアに備え付けてあるノッカーを掴む。ホームズがリタを呼び止めたのは、その瞬間のことだった。
階下からノッカーを叩く音が聞こえた。
「ホームズさん、お客様です」訪問者の応対をするために一度階下に下りていったリタが、ひとりの女性を伴って戻ってくると、「果物を用意してきます……三人分ね」
ホームズと顔を見合わせ、互いに微笑み合った。ホームズは訪問者の女性に向き直ると、「お掛け下さい」と着座を勧め、自分も対面する椅子に腰を下ろした。その隣では、すでにワトソンも椅子に掛けている。
「突然の訪問、申し訳ありません」女性は頭を下げて、「この事務所が、不可解な事件の調査をしてくれるという話を聞いたもので」
ホームズが自分とワトソンの紹介を終えると、女性が何かしゃべり出そうとしたが、
「ああ、何もおっしゃらないで結構……」ホームズは彼女の言葉を止め、顎に手を当てて女性を観察すると、「かなりの資産家……この世界には王侯貴族が存在するそうなので、その方面のご令嬢でしょうか。あなたのような美しい恋人がいながら浮気に走るとは、見上げた根性の男がいたものだ。あなたが送った刺繍入りのハンカチが、浮気相手との食事で口拭きに使われていると思うと、穏やかならないものがありますよね。ご自身の調査では限界を感じ、こうして我が探偵事務所に恋人の浮気調査のご依頼に足を運んだというわけですね。ご安心下さい、秘密は厳守いたします。調査内容が外に漏れることは決してありませんから」
「……」
目の前の女性は、きょとんとした表情でホームズを見つめている。隣に座るワトソンも同じような顔をしていた。二人の視線を満足げに浴びると、ホームズは、
「なに、簡単なことです。乗ってこられた馬車と御者の対応と、さらに、その豪奢なお召し物を拝見すれば、あなたが高貴なご身分の方だということは一目瞭然です。ですが、服のサイズが微妙に合っていません。お体に比較して大きいようだ。あなたのようなご身分の方がサイズ違いの服をずっと着るなどということはありえないでしょう。ということは、最近あなたのほうが痩せられたのだと考える他ありません。服をあつらえ直す時間もないほど、最近になって急激にね。
若い女性が急に痩せる原因といえば、これはもう世界を問わずひとつしかありません、恋にまつわる悩みです。そのほとんどは片思いか浮気問題に集約されます。片思いで探偵事務所を訪れる人はいませんから、抱えていらっしゃる問題は浮気で決まりです。
さらにその指、白魚のような細く美しい指ですが、生傷が散見されます。刺繍がご趣味だからでしょう。ある程度ご自身で調査をしていたということは、履いておられる靴を見れば分かります。お召し物に比べてその靴は格段に汚れています。随分と歩き回った証拠でしょう。加えて、ここへ馬車でお越しになったことからも分かるとおり、あなたほどのご身分の方でしたら普段自分の脚で歩くということはないはずです。そんなあなたが自分の脚を使って浮気調査をする。これは、このことを誰にも知られないよう秘密裏に行う必要があることを示しています。
最後に、調査対象が恋人であり、ご主人ではないことはあなたの左手薬指を見れば分かります。この世界でも結婚相手に指輪を贈る風習があるそうですね。ですが、それは基本富裕層や王侯貴族に限られるとか。あなたほどのご身分なら、既婚者であれば指輪をしていて当然でしょうからね」
ホームズは、指輪も何もついていない女性の白い指を見やった。
「……」
ホームズの長い口上を聞き終えても、女性は表情ひとつ変えなかった。ホームズは、いかがですか? という顔で椅子の中で脚を組む。
「あ、あの……」女性が口を開き、「わ、私、さる王家に――」
そうだろう、そうだろう、と満足げに頷いているホームズだったが、
「お仕えしている使用人です」
「……はい?」
ホームズは表情を、うん? というものに変え、椅子から少し身を乗り出した。
「この服は、こちらに訪問するためにと王族の方から貸していただいたものなのですが、ちょうどよいサイズの服がなかったんです。私、服なんて仕事着兼用の古着を二着しか持っていないものですから、そんな服装でこちらに伺うのは失礼に当たりますから。でも、靴だけは履き慣れたものでないと足を痛めてしまうので、自分のものを履いてきました。もちろん、馬車も用意していただいたものです。私、主に針仕事を任されておりますので、この指の傷も、その仕事で……。ここを訪問した目的も、浮気調査などではありません」
女性は、申し訳なさそうな上目遣いになる。ホームズは一瞬目を逸らしたが、また、じっとその目を見返して、
「……ああ、そう、そうでしたか。その可能性も当然存在しました」こほん、と咳払いをひとつすると、尻をもぞもぞと動かして椅子に座り直し、「リタさん、まだかな……」
女性越しにドアを見やる。隣ではワトソンが顔を伏せ、肩を小刻みに震わせていた。ホームズが見当外れの推理を述べているうちに、リタは準備を終えており、果物と水の入ったグラスがすぐに運ばれてきた。ホームズに促され、女性がグラスに手を付けると、
「それで、本日はどのようなご用件で?」
いましがたのやりとりなど存在していなかった、いいね、と目で訴えかけながらホームズは問い直した。
「はい」と目の前の女性も、トンデモ推理を披露されたことに不信感を抱く様子もなく、「私の名前はテセラといいまして、イルドライド王家に仕えている使用人です。ホームズ様は、こちらの世界に来たばかりの
「ええ、不勉強で申し訳ありません」
「いえ。イルドライドは連邦の中でも小さな
「連邦?」
ホームズはワトソンに顔を向けた。
「はいはい」とワトソンは、「ここは、いくつかの国が集まって構成された連邦国なの。連邦全体にはグランバトロンていう国名が付けられてる。ちなみに、僕たちが住んでるこの街バトロサは、クラナタスっていう連邦では一番大きな
「いくつかの国が合わさってひとつの国名を……なるほど、イギリスみたいなものか」とホームズは笑みを浮かべて、「そこの一番大きな国の首都に事務所を構えることになるとは、ますますホームズっぽくなってきた」
「ん? ホームズっぽいって、なに? 自分のことでしょ?」
「ああ、いやいや、こっちの話だ、気にするな」ホームズは両手をぶんぶんと振ると、テセラに向き直って、「話の腰を折って申し訳ありませんでした。続きを」
「はい。私は、ある事件を解決してもらいたいという、イルドライド国王からの依頼をお伝えするべく、こうして伺ったのです」
「国王
「殺人事件です」
「……詳しくお話しいただけますか?」
「はい。イルドライド王家の『ある話』に関わることです」と、ここでテセラはホームズの隣に座るワトソンを見て、「こちらの方であれば、ご存じかもしれませんが」
視線を受けた褐色の肌の少年は、
「もしかして、『
テセラは悲しげな顔で頷いた。
「……何だそりゃ?」
ひとり蚊帳の外のホームズは、「石化王子」なる話の解説を求めた。
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