転居の自由

 前回の宿替えつまり入山時と同様に、今回の下山に際しても業者はうちに辿り着くまでに迷子になり、途中二度も電話をしてきた。因みに見積もり段階での担当者もまた道に迷っている。前の家に住んでいた間に、問い合わせメール、レスキュー電話等を一切寄越さず初回から自力でうちまで遊びに来られたのは友人のY(from九度山、愛車はホンダ)ただ一人であったことをここに記し、永遠に称えよう。さすがだブラヴォー。


灘「今どの辺りか……わかりませんよね、わからんから電話してきてはるんですよね」


業者「すみません、そうなんです」


灘「目印になりそうな建物とか……ないよな、うーん、今何が見えます?」


業者「えーと、木と、岩……ちゅか崖? ですかね……」


灘「ほな確実に説明出来はるところまで引き返して下さったら、迎えに行きますんで」


(実録 引っ越し業者とわたしの会話)



 引っ越しは楽しくないが、引っ越し出来る、という立場はいいものだと思う。ローンを組んで買った家を替わるとなると大ごとだが、賃貸はいつだって身軽極まりない。大枚はたいて建てたうちのそばに、あの騒音オバサンみたいな人が住んでたらどうするよ。そう簡単には逃げられないだろう。初めはそうじゃなかった隣家が急にゴミ屋敷化するとかもたいがい困るやろなー。あと裏の家の子がドラムをやり始めたとかもどうか。(ちょっと脱線するが京都では、近所の人から「おたくのぼん、この頃えらいピアノが上手にならはりましたなあ」などと言われたら、即日折り菓子を持って謝りに行かねばならない、とSちゃんから聞いた。難儀な土地だな。あと、今までもこれからも、わたしが特に断りなく「京都」と書いた際には、それことごとく洛中を指す、とご理解いただきたい。)



 我々夫婦の場合、家は買わずとも田舎に仏壇と田圃までもがもれなく付いてくる形で既にあるわけだ。またいつか帰って来いとか言われるだろう。でも、まあ義弟もいるしなんなら義妹たちもいるし、やだー、このままずっと街に住むー、とわたしが道に寝っ転がってぎゃんぎゃん言えば、多分みんなで何とかしてくれるんじゃない。なんて、元々シティガールの嫂さんは無責任。きわめて無責任なのよ昔から。そういえば、引っ越して、近所のひととの会話も大幅に変わった。こないだの台風のことにしろ、「よう降りましたねー」とは言い交わしても、それに続くお互いの畑の作柄トーク(「おっちゃんとこ、みかん大丈夫ですのん?」「うちキャベツの苗、流されたわー」みたいな)は当然一切なく、ただ一言「怖かったねー」で終わる。シンプルかつドライでイージー。また新鮮な感覚である。



 ともかく、いやなときは引っ越せる、というのは精神的にも実質的にもいいことだ。ただ、近所もみんないいひとばかりで、気に入って住んでいて、でも多分もう戻ることもなくて、という場所から移らなくてはならなくなったときは、別れが悲しい。非常に残念である。ずっと昔住んでいた家のお隣さんとはいまだに年賀状やら折々のやり取りがある。でも会うとなるとなかなか会えない。どうしてはるやろか、とよく思う。


 それから、わたしの場合はパートも一からになる。もうぼちぼち仕事を探すつもりだが、前のうどん屋は本当に働きやすくてよかった。お姐さん方はめちゃくちゃ面白くて毎日爆笑の厨房だったし、途中から入ってきた年下の奥さんもかわいかったし、何より子どもがいる母親の内実をみんながよく分かってくれて、やれ熱出した、お腹こわした、なんていうときにはすぐに「早よ帰ったり!」とか「明日代わったるさかい休んだらええがな!」とか言ってくれて、実に、絶大に、助かった。


 最後の日に、お姐さん達はわたしの送別会をやってくれた。うどん屋で。閉めた後に。あんた何がええのん? と事前に聞かれたときにピザ、と答えたら、店にデリバリーを呼んでくれた。運んできた兄ちゃんは、ボクうどん屋さんに配達来たん初めてですわー、と言っていた。ささやかながら、他人様に記念すべき「初めて」を提供できて、なんかよかった、と思った。わたしもうどん屋でピザを食べたのは初めてだった。なんかよかった。

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