フロイト先生に解説を求めたい
カップ麺の自動販売機の釣銭口に忘れられていたお金を見つけたのは、まだ小学校に上がる前のことだ。
それはいつもの近場の児童公園ではなく、大人の足でも家から十五分以上は歩かねばならない、滅多に連れて行ってもらえなかった公園で遊んだ帰り道で、夕暮れ時だった。
憧れの、タコ型のデラックスな滑り台を備えたその公園から帰るのが嫌で、わたしはぶーぶー言っていたはずだ。当時その界隈はまだ宅地の造成途上で、ちらほらと草の生えた空き地があり、そういうところのネコジャラシやなんかを摘み摘み文句を垂れ、そしてブツクサ言うなと怒られていたのだと思う。
そんな一区画の歩道の脇に、動いているのかいないのかすぐには判然としないおんぼろの自販機があった。ジュースの販売機ではなく、売られていたのはカップ麺だった。思い返しても、カップ麺の販売機ってったって、どうやってお湯を入れたのだろうかとか、いろんなことがわからないのだけれども、日清のカップヌードルが入っていたのは間違いない。
公園の帰りである。空腹である。当然空腹である。子どもだもの。
わたしは同伴者(ことこれに関しては、母説・閣下説・まさかの父親説、定かでない)の手を振りほどき、その自動販売機に駆け寄った。すると、四角い機械の下の方の小さな穴に、十円玉がいっぱい入っているではないか。
この日のわたしの記憶はここまでである。見つけたお金をどうしたのか、交番にとどけたのか(まずないね)、放置したのか(これもないね)、猫ババしたのか(多分これやね)、ちっとも覚えていない。ただ、自販機の釣銭口はとりあえずちぇけ・ラーという卑しい習慣だけが根付いた。決定的に。
長じて後、わたしはアイスクリームの自販機でもお金を拾った。タバコの自販機でも。ただ、ジュースの販売機だけは、いつもつまらないものだった。わたしは、ささやかな非日常であるジュース以外の自販機の前でひとは何かしら動揺している、そしてお釣りを取り忘れるに至る、という一仮説を導き出した。
しかし、自分が忘れる側に立ったこともあった。あれは二十四の頃のことだ。阪急梅田駅の切符販売機で。釣り札(札ですよ!)を取らずに電車に乗って、家に帰ってから所持金の異様な少なさに気がついた。確かに飲んではいた、けれどそこまで回っていたわけでもないのに、どうやら千円札を入れたつもりが、五千円札で支払いをしていたらしい。小銭だけ取って、四千円置いてきたのだ。それまで得てきた釣り銭の総額をはるかに上回る大損害だった。
今から絞め殺されるトドのような声を上げて、まあそんなのは実際聞いたこともないが、そこいらじゅうを転げまわって呻いていると、兄から「金は天下の回りもの、それを拾った裸足の貧しい兄妹が温かいスープにありついたと思いなさい」と慰められた。お兄ちゃんありがとう。でも、二十三時を回った茶屋町口にいるのは、たいがい酔っ払いのおっちゃんか、気楽な学生の群れだけやろうがよ!
わたしには繰り返し見る夢のパターンが二つあって、一つは「テスト範囲を知らない、出席日数が足りない、学校を卒業できない」というもの、そしてもう一つが、「自販機から釣り銭がじゃんじゃん出てくる、それを我が物にしようかどうか煩悶する」という内容なのだ。どちらも大体月一の頻度で見る。卒業できない恐怖を今も夢で重ね重ね味わわねばならないのは、義務教育が済んでからの学歴において自分が非常に不真面目だったということが原因としてあるのは確実だが、釣り銭じゃらじゃらの方については、上に陳べたような出来事が関わっていると思われる。ただ、それを何度も見る、ということ自体には一体どういう意味があるのか。フロイト先生に聞いてみたい。カウチに寝そべりましょか。
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