生き物の聖域

サーナベル

第1話

私が死んだ時、傍にいたのは付き合って2年目の彼女だった。

父は既に他界。母は認知症で私のことをスッカリ忘れていた。

彼女は私のため泣いていた。それは至って自然なことかもしれない。しかし、あの時、私は一瞬の違和感に囚われた。

私のやってきた行いを知る神がいるならば、納得がいっただろう。

私は極端な子供嫌いだった。

殺した。

何人も何人も殺した。無垢な身体に刃を突き立てて奇笑する大人が私という男だった。

認知症になる前の母は私からするとエンジェルだった。私は女が傷付くのを恐れた。

その通りだ。

私は少年専用殺し屋だった訳だ。

警察は私を捕まえられなかった。私が刑事長本部所属・藤堂勇作だったためだ。少年殺人事件は私の管轄内であり、真実は容易に隠蔽された。

「また逢える」

私は顔に滴る彼女の涙を舐め取った。少し塩っぽくて美味しい。

私の弱々しい呼吸音に気付いてハッとした様子で彼女が言った。

「逝かないで、勇作さん…ッ」

私は聞いていた。自分の心臓が止まる音を。花が散るように美しい。

死んだ。私は死んだのだ。

藤堂勇作はもうこの世にいない。

全ての感覚を失う。だが、記憶と意識だけ宙を舞っていた。

魂があるなら--彷徨って産まれ代わる場所を探しているに違いない。

暫し時の流れに沿っていた。

無限に思える時を刻んだ。

思考回路がどうにかなりそうだった。

気付けば緑色の水中を漂っていた。



大勢のメダカがプランクトンを争奪している。

広大な濁った川が目の前に広がっている。

私は腹鰭を使って自分の顔に触れ、確かめた。

薄っぺらいネバネバとした皮膚と大きな目--まるでメダカだ。そうだ。私はメダカに転生したのだ。

転生と言うと産まれ代わりとはまた別物らしい。何せ死ぬ前の記憶が鮮明に残っているのだ。

私はネバネバとした口を開いた。

「ここはどこだ?」

私の左を泳いでいるメダカが私の方へ寄って来た。少し冷たい様子だ。

「ヌガー、目が覚めたか」

私は混乱の最中でも考えることは辞めなかった。ヌガーとは、あの甘ったるい食べ物のことだろう。私はヌガーというメダカと入れ替わったようだ。

左のメダカが怪訝そうに言葉を繋げた。

「疲れたとでも言いたいのか?そんな顔してるぞ、ヌガー」

私はヌガーではないと言いかけてやめた。藤堂勇作の名をここでいざ捨てるべきだと判断した。私はもう人間の尊厳を失ったのだ。

私から右手の背鰭が折れたメダカは厳しい目で--所詮メダカだ--私をじっと見ると納得したように頷いた。

「死にかけたからって記憶喪失を装っても無駄だぞ、ヌガー。今日も俺達のために一仕事して来いよ」

どうやら旧ヌガーはパシリさせられていたらしい。私は偉そうな態度を取るメダカ達に身分を弁えさせる方法を模索した。

「たまには別のヤツに頼めばどうだ?向こうの小さいのとか打って付けだぞ」

左のメダカと右のメダカがポカーンとした様子で目を合わせ合った。

私は無視して言葉を連ねる。

「左のはトトで右のはジュニだな。ご苦労さん」

トトが口をパクパク動かす。藻が漂って一瞬視界が遮られた。

「ヌガーごときがレックさんをバカにしているのか?後、僕はトトではない。ユームだ」

囁き声で私に対しジュニが唸った。

「本当にお前、ヌガーか?話し方が違うし、顔付きも随分怖くなったものだな」

笑うのは得意ではない。だが、この場を凌ぐには笑うしかなかった。

「私はヌガーで間違いない。何が欲しい?言うことを聞いてやる代わりこの世界のシステムを教えろ」

ジュニが少ししおらしく口を効いた。

頭上で人間が石を投げたのか、川への突然の衝撃にメダカ達があらゆる方向へ逃げ惑った。反射的に私も身を翻す。

「ヌガー、お前変わったな。この川の支配者が〝宝〟を持ってる。それは知ってるな?その〝宝〟を手にした者がこの川の支配者になり得る」

ジュニは大袈裟な溜息を漏らした。

「ヌガー、俺達から逃れる代わりに命がけの試練を受けるがいい。どうせ何もかも忘れたって口じゃ、バカにしても仕方あるまい」

ジュニが大真面目に言う。

「お前は変わった」

何と言うこともなく屈託に私は笑みを作る。

「気のせいだ、ジュニ」

私は自由気ままに泳いだ。ユームとジェス--調べはついた--が後ろから付いて来る。

何故だろう、私はこの川を知っている。子供の頃、よく蛙の卵を潰して遊んだ。

メダカの目線だと蛙はなかなか手強そうだ。下手すれば捕食対象になり得る。

支配者はナマズだとヒソヒソ声でユームが教えてくれた。

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