二章
20☓☓年 人生に食い込む一振りの剣
──20☓☓年、東京 古民家──
夢。
これはきっと、私が生まれる前の世界の夢。
世界はまるで曼荼羅のように、光の玉が重なるようにして出来ていました。しかしそのうち一つがいびつに歪み、今にも弾けそうなほど膨らんでいます。
私は何かに引っ張られるように、その球に手を伸ばしてコロコロと撫でました。
その瞬間、とぷっと音を立てて私の手は球に沈んでいったのでした。
特に抵抗はしませんでした。するとすごい力でどんどん引っ張られ、遂にはすっぽりと体が飲み込まれてしまいました。
しかし不思議と驚きはありません。
まるでそうなるのが分かっていたような、そんな気がしていたのです。
これが私の人生初めての始まり。
「ああ、起きたのか。気分はどう?」
目が覚める、何がどうなったのでしょう。
頭がガンガン痛む。何も思い出せません。
私は重い身体を無理矢理引き起こし、周囲を見渡しました。
古ぼけた民家、畳の香り、小さな庭から部屋の中に光が指している。
足音が聞こえる。床のきしむ音。
振り返ると、先程の声の主でしょうか? 色白の男が立っています。
なんだか見覚えがあるような。
「まだ頭がはっきりしていないかな? お茶を入れたよ、飲むといい」
目の前の木のテーブルにお茶が置かれます。まだ湯気が立ってる、今淹れたばっかり。
上からお茶を覗き込む、茶柱は立っていません。心の中でちぇっと零しお茶をいただく。
確かこの男は、ええと何だったかな...。頭の中がガンガン痛む。
「僕は輪廻。落ち着いたら、少し話そう」
色白の男は私の向かいにどかっと腰掛けます。
変わった男でした。色白の肌、白い髪。前髪は少し崩れていて、束ねた後髪は肩まで伸びています。体は比較的細身ながらも相当鍛えているのでしょう、ガッシリとした肉付きをしています。
見た目の年齢は同い年くらいに見えましたが、なんだか雰囲気があります。幼い頃に見た縄文杉、その時は霧がかかっていて姿はハッキリ見れませんでしたが、遠目からでも何か大きなものがあるのは分かりました。この男からは同じような雰囲気を覚えます。
お茶を一気に飲み干す。重い体に良く染みました。
頭痛が少し収まる、ここはどこ?
自分がここにいる理由を探します。
チラと輪廻と名乗った色白の男を見る。目が合う。
輪廻、ああ輪廻! 閉じていた記憶の扉が開く音がする。
そうだ、私はこの男を──。
全身から汗が吹き出る。どうして私はそんな恐ろしい事を?
急に何もかもが怖くなって、私はお茶を両手に俯きました。
目の前の男、輪廻が小さく口を開きました。
白い肌、流れるような金色の髪に、後ろで束ねた長髪と雑に編んだ三つ編み、力のある蒼い瞳、長い睫毛。
綺麗な子だな。それが僕の第一印象。
恐らくはイングランド系イギリス人、ハーフではなさそうだ。日本語は上手だったな。
こっちに来て長いのだろう。混ざっててもクォーターだろうか。
お茶を必死に飲み込む姿すらも、凛としていて雰囲気があった。
彼女には人を惹き付ける神性がある。
「思い出した? 今日、なにがあったのか」
僕は静かに問いかける。なるべく威圧しないよう優しい声音で。
僕は知っている。彼女に罪はない。悪いのは全て、世界のシステムに自分ルールを付け足し押し付ける天上のお偉いさん達だ。
焦らず発言を待つ。
「わ、私は──」
俯いたまま、小さく彼女が口を開きまた押し黙る。黙って続きを待つ。
フルフルと小さく震える彼女だったが、次の瞬間突如テーブルを両手で叩いて捲し立てた。
「私は知らん! こげん恐ろしかこと、するつもりなかった! 頼るもんば無うして不安で仕方なかった時に、なんだか頭に響く声があって、それに従うたら不安がのうなるようなそげん気がして、ばってん私、私はーー!!」
話も半分に、僕は心底びっくりした。
なにがって彼女から飛び出した流暢な博多弁に。
外国から来たんじゃないのか? 博多育ち? さっきは普通に喋ってなかったか?
疑問が溢れ出す。経験で生きてきた人間はその範疇外のイレギュラーに弱い。
この子は剣道経験者のはず。そうだ確かに博多は剣道が盛んだ。玉竜旗、何度か前の人生で僕も参加したことがある。
ばってんこいつは予想外だ。動揺しながら静止する。
「ま、待ってくれ。君は日本人なのか?」
方言なんてものは幼い頃から慣れ親しまなければ中々身につくものではないだろう。日本人にネイティブの発音が難しいように。
「...血はイングランドですが、生まれも育ちも日本です。日本から出た事もありませんし英語もからきし喋れません」
ああ、標準語に戻った。何故だか安心した。
「標準語も喋れるんだね」
焦りがうっかり口から漏れる。
「...敬語でしたら」
警戒しながら彼女は答える。
聞けば彼女は東京に来る前に方言を矯正したのだという。
習慣上、初対面の人間とは大体いつも敬語で喋る。だからとりあえず敬語に慣らしておけば、東京に行ってもおのぼりさんには見られないだろうと。
しかし動揺すると素が出てくる。なるほどー。
動揺を抑えつつ、なんとか話を元に戻す。
「僕を襲った件に関しては、別に気にする必要は無いよ。僕には君を恨むつもりもない」
むしろ申し訳なく思ってるくらいだ。思いっきり踏みつけた首は大丈夫だろうか?
「僕を襲った理由について、ハシュマルから天啓を受けたとそう言ってたね。具体的になんて言われたのか、もしも覚えてたら教えてほしい」
彼女は顎に手を置き悩みはじめた。いちいち仕草に品がある。
「いえ、すみませんあまり詳しくは。ただ、東京に向かい貴方を殺さなくてはいけない。そんな使命感だけが私の頭を巡っていた記憶はあります」
もちろん今は正気ですが! 彼女は慌てて補足をつけた。
天啓を受ける際のパターンは、いくつかある。
彼女のそれは信仰心を持たない人間へのそれだ。弱った心につけ込むように、神の意思を流し込む。
生来神性が高いのだろう。神域に繋がりやすい魂が彼女に起きた何かを引き金に呼応した結果だ。
しかしハシュマルか...、バカにするわけではないがもっと大物が来れば良いのに。
あのジャンヌですらミカエルに天啓を受けたと言ってたぞ。
じゃあ次の質問だ。
気を取り直して話を続ける。
「よかったら、君のここまでの半生を聞かせてくれないか?」
僕は彼女の魂の形に強い違和感を覚えている。1000年生きればいろんな人に合う、いろんな魂を目にする。
でもそのいずれにもこの魂は類似していない。
魂は生命の有り様に影響しないが、生命の有り様は魂に影響を及ぼす。歪んだ人生を送れば、魂も歪む。
今の僕のように。
僕の質問に訝しみながらも彼女は語った。
小さな貧乏剣道場の娘として生まれ、幼い頃から苦労しながらも清く正しく生きてきた過去を。
彼女には誇るべき人物がいた。
彼女に剣道を教えてくれた父。娘が生まれて間もなく妻に先立たれ、片親ながら必死に娘を育ててきた父。尊敬すべき偉大な父。
その父の死が彼女の心を惑わせた。
それはつい先週の事だった。
極貧生活の最中、娘を全てに優先し結果次第に疲弊し弱っていく父。生粋のクリスチャンであった筈の彼に、ついに神の救いの手が差し伸べられることはなかった。
それが彼女が若くして神の存在を否定する事となった切っ掛けであった。
父の死を契機に天啓を告げに来た天使達はそれ故一度は彼女の魂に拒絶された。
しかし頼るものない彼女が、摩耗した魂が、朦朧とする頭で唯一の拠り所としたのは皮肉にもその神の意思であった。
相変わらずの──外道。
「私も聞きたい。あなたは一体何者なのです?」
今度は彼女が問うてきた。
僕は隠すことなく全てに答えた。
僕が生まれてからの1000年。僕が生きてきた理由。
僕の此れまでと此れからを。
僕の話を彼女は真剣な顔で聞いている。
こんな荒唐無稽な話を。
全てを話し終わった後、彼女は少し悩んで結論を出した。
「つまり、貴方は困った人を救う神様なのですか?」
その結論に僕はまるで苦虫を潰したような心地になった。
実際にそんな顔をしていたかもしれない。
悪いけれど、そんなやつはこの世界には存在しない。僕はそんな良いものじゃない。
確かに僕は世界に安寧を齎す為に遣わされた神の御子だったかも知れない。だがその役目を全う出来た事は一度として無い。
これまで何人もの人間が僕の目の前で死んでいった。その中には僕が奪った命もある。
僕は神の御子なんかじゃない。
僕は答えに窮して押し黙る。
しばしの間、場に静寂が漂う。
すると黙ってこちらを見つめていた彼女の口元がふいにニヤリと笑い、こう言った。
「なるほど分かりました。では不束者ではございますが、これからお世話になります。どうぞよろしくお願いします」
突飛な一言、予想外の台詞。
三つ指ついて彼女は流麗な仕草で礼をする。
どういう事だ?
本日二回目の動揺。おかしいな、彼女相手だと僕は平静を保てない。
「そういう事であれば、今私は確実に困っておりますから。父に先立たれ寄る辺もなく。
これはもう是非助けて頂こうかと。ええ助かりました。天啓は聴くものですね。確かに救いがありました」
彼女は調子のよい事を言いながら、ニヒルな笑顔でこう続ける。
「だから、私はここに居るのですよね。暴行され気絶した人間を誘拐するような方が、まさか神様にいる筈はありませんから」
ああ、思い出した。
こんな形の魂に見覚えはないけど、雰囲気からわかる事がある。
ふてぶてしい人間の魂というものは往々にしてこういう感じだった。
僕は顔を引きつらせながら答えた。
「分かった分かった。君が今ここにいるのは僕の責任でもあるのかもしれないな。我が家へようこそアナスタシア」
今日、不思議な同居人が一名増えた。僕の人生に食い込んだ一振りの剣。
1000年続いた僕の物語が、一つの転機を迎えようとしている。
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