一章
10☓☓年 最初の人生、初めての出会い
──10☓☓年、東の果ての小さな漁村──
海を眺めるのが好きだった。
見渡す限りの海、広い広い世界。
この目に映る海が、世界が、ほんの一部分だけで、海の先には更に違う島があって違う人たちが住んでいるのだと聞いた時は幼心に衝撃を受けた。
「すごいねぇ。上手だねぇ」
りんか婆ちゃんはよく褒めてくれるから好きだった。
りんか婆ちゃんは僕の育ての親だ。
僕の本当の両親は僕が5歳の頃、高波に飲まれた僕を救うために海に飛び込んだきりそのまま還らぬ人となった。
立派な両親だったと聞く。でも僕には殆どその思い出がない。ぽんと頭に置かれた手の優しい感触と、大きな背中だけを薄ぼんやりと覚えてる。
「今日はいい天気だなぁ」
お気に入りの桟橋で釣り糸を垂らしながら浴びるお日様はとても気持ちが良い。朝の光を反射してキラキラと輝く海はとても綺麗だ。
この世界を作った奴は、きっととてつもなく素晴らしい奴なんだろう。だってこんなに世界は美しいんだもの。そうに決まっている。
「今日は釣れないなぁ...」
とはいえ良い気持ちになってばかりもいられない。別に遊びに来てるわけじゃない。
両親を無くして5年、婆ちゃんと二人暮しではその日食べて行くものだけでも精一杯だった。
他に身寄りのない齢10歳の少年では漁に行くこともままならない。全く他人の足手まといを乗せて獲物を分けてくれるほど余裕のある漁師はこの村にはいないのだ。
せめて日々の自分たちの食い扶持は自分たちで獲られるようにしなくてはならない。
そうだ。いっぱい食べていっぱい寝て。早く大きくならなくちゃ。早く立派な身体を身に着けて、婆ちゃんに楽をさせてあげなくちゃ。
桟橋から手を降ろし水面をパシャパシャとかき混ぜる。こうすると遠くからでも何かに気付いた魚達が近付いてくる。まるで僕に食べられる為かのように。
でもそうして近づいてきた魚と、なんというか、目が合う......ような時がある。そうすると魚達は何か重大なものに気が付いたかのように一目散に逃げ去ってしまうのだ。変だなぁ、人間が怖いのだろうか? でもそうなら、そもそも近寄っては来ないよなぁ。
世の中はまだ僕にはわからないことが多すぎる。
結局今日の釣果はほんの小魚数匹だけ。釣りの時間は限られてる。朝釣りが終わったら家に帰って朝食を食べ、次は婆ちゃんの畑の手伝いとそれから村でやってる塩田の手伝いだ。
塩田は特に重要だ。働けば塩がもらえる。塩があれば食べ物を保存することもできるし、町や山から来た人達と物々交換をする事だってできる。
「今日もねぇ、山から
りんか婆ちゃんからそれを聞き、僕は内心ムッとした。転ちゃん。それは隣の山で暮らしている小さな猟師の女の子だ。僕と同じく幼い頃に両親を無くし、なのに既に一端の猟師として働いている。壮年の猟師の弟子になり、野ウサギやキジを取ってはこうして山から降りてくるのだ。
僕はまだろくに漁師にすらなれていないのに。
『塩くれ。あと野菜。鳥やる』
話で聞いただけだけど、いつもぶっきらぼうに獲物を差し出し塩やら野菜を持っていく。肉はありがたいけど、いつも僕のいない時に僕の育てた野菜や塩を持っていくから、僕は正直いい思いをしていなかった。
それだけじゃない。気に入らない理由は他にもあった。
「
輪くんというのは僕の名前だ。婆ちゃんが名付けの親になる。
平安時代は仏教が盛んで、だから婆ちゃんももちろん仏教徒で、それにちなんだ名前となる。曰く、僕の魂が流転し何か辛い事や悲しい事があっても、いつかまたみんなと一緒に幸せに暮らせますように。そういった願いが込められている。
【
婆ちゃんがくれた僕の自慢の名前だ。
...なのだけれど、そう。たまらない事に、名前が被っているのだ。僕の嫌いなアイツと。
彼女は【
まだ会ったこと、無いけど。
「こぉら輪廻!ちゃきちゃき運ばんか!!」
漁師のおっちゃんにどやされながら、何往復も海水を運ぶ。
塩田とはその名の通り塩を取る田んぼだ。この漁村では主要産業として地域全員の協力で塩田を運営している。こうして手に入った塩は朝廷にも納める為、皆で必死になって働いた。
砂を水を通さない粘土の上に敷き、その上に海水を染み込ませる。それが乾燥すると塩分を多量に含んだ砂が取れ、その砂に更に海水を加えるとより塩分の濃い海水が取れる。これを繰り返し塩分濃度を高めていくと、最後には塩が取れる。
揚浜式塩田。人間の知恵と発想の賜物だ。
正直当時の僕には何をしているのかよく分かってはいなかったけれど、人間の自然を利用する知恵には昔から感心しきりだった。
世界はすごい。人間もすごい。
塩田での仕事が終わると、辺りはもう随分と暗くなる。
この時代、日が落ちれば周囲は全くの暗闇になる。暗闇は怖い。何かが潜んでいるようなそんな気持ちになる。でもほんの少しだけ、暗闇に惹かれる自分もいる。
この仕事終わりから完全に日が暮れるまでの時間が、僕の唯一の自由時間になる。とは言ってもやることはいつも一緒なのだけれども。
川の水を汲み上げ林の中に入る。獣道を掻き分けしばらく進むと、林の中にぽっかりと開いた空間がある。山の麓の小さな園。
僕はこの園の中心で一本のクスノキを大切に育てていた。
僕と同じ年に生まれたらしいクスノキ。既に3mを超える樹高で、僕よりずっと背丈は上なのだけれども。同年代の子供のいないこの漁村では、このクスノキは僕の唯一の友達だった。
汲み上げた水を与えたら木にもたれて座り込み、取り留めのないことを話す。当然返事はないのだけれど、なんだか満たされた気持ちになる。
僕には一つだけ不思議なことが出来た。手を伸ばして近くに落ちてる木の枝を拾い、ぐっと念を込める。
すると木の枝はグニャグニャと形を変え、木刀のような形になった。木刀に出来るだけじゃない。輪っかを作ったり花を咲かせたり、いろいろな形に変えられる。
「モノの形を変えられる」。これは僕の唯一の特技なのだ。
それが出来るとわかったのは物心ついた頃。当然はしゃぎ、喜々として婆ちゃんに報告した。
でも婆ちゃんは喜んではくれなかった。
「ああ、恐ろしい。こんなこと、絶対に他所でやってはいけないよ。仏様のお作りになられた物を変えるなんて、そんなことは神仏の領域だよ。人間がやったらいけないよ。」
婆ちゃんが怒ったのは、この時が最初で最後だった。だから僕はこれが悪い事なんだと思い、人前で見せることはなくなった。
このクスノキの園は僕が唯一この力を自由に使える場所だった。
僕は奇跡を起こせる。水をお酒に変えたり、石を米にしたりとかそんな大袈裟なことはできないけど、何にも出来ない僕にとってこれは小さな誇りだった。
婆ちゃんには悪いけど、無かったことになんて出来ないよ。
夜、日が暮れる前に家に帰り婆ちゃんと晩御飯を食べて眠りにつく。これが僕の一日。
こんな日がこの先何年もずっと続いていくのだと、僕はこの時はそう思っていた。
翌朝、いつものように目が覚める。いつものように朝釣りの準備をして海岸へ向かう。だがこの日は海岸の様子が何時もとなんだか違うような、そんな気がした。
違和感の元を探す。そうすると、ふと普段とは違う物が目に映った。
初めて見るけど知ってる。あれは亀だ! 婆ちゃんから聞いたことがある。何でも助けたら龍宮城へ連れてってくれるとか、とっても美味しくて滋養が高いとか。
僕は喜び勇んで駆けた。素早く亀に駆け寄り、そして躊躇なく持っていた釣り竿を叩きつけた! 浦島太郎? 今はそんな奴がこの場に現れない事を望むばかりだ。慈善より滋養。目の前の食料を仏心で見逃すほど、今の生活に余裕はないのだ。
龍宮城なんてない。憧れた事は無くもないが、あれはあくまでお伽噺。今ばっかりは断言してやるぞ。
竿がしなり、亀を軽く叩く。ああこんなもんじゃ駄目だ!埒があかない!
婆ちゃんの言いつけも忘れて、竿を木刀に変化させ、しこたま殴る。最初は暴れていた亀も次第に大人しくなり、ついにはこと切れたようだった。
木刀を蔓状に編み変え、亀を縛ると背中に背負った。
今日はなんていい日なんだ! 釣りなんて目じゃない大物が取れた!
荷物をまとめて早速帰路につく。恐らくこれまでで最も早く最も大漁の帰宅。これで今日はご馳走だ! 婆ちゃんにいっぱい食べさせてやれる! 甲羅はスープにして、肉は焼いて、余った部分は塩漬けにして、そうだ!海岸にまで来ていたなら卵も持ってるかもしれないぞ! それから、それから──。
荷物の重さなんてすっかり忘れて、僕は踊るような足取りで駆けていった。
「...塩くれ」
「あらえらいねぇ。今日も来たのねぇ。でも困ったわねぇ今はうちにもあんまりお塩がなくてねぇ。弱ったわねぇ」
家が見えてきた。珍しいな、婆ちゃんが表に出てる。お客さんだろうか? 誰かと何か話してる。
遠目からだけれど相手はなんだか必死そうに見えた。
婆ちゃんから何かを受け取って、代わりに何かを渡した。
「婆ちゃーん! ただいまー!」
「あらあら、今日は早かったのねぇ。今ちょうど転ちゃんが来てるのよ。はじめましてかしらねぇ」
いつもより早い帰宅、これまで起きていたすれ違いが、この日はなかった。
足が、止まる。
初めて目にしたその子に、僕は一瞬心を奪われた。
いや、魂までもが引っ張られたような、そんな心地がしたんだ。
この子が──【転生】。僕と同じ名前を持つ、小さな小さな女の子。
透き通るような黒い瞳に、艶のある黒い髪。
獣の革で作ったであろう野趣あふれる格好。下はこの時代では珍しいズボンを履いていて、上は毛皮のマントを羽織っていた。
首には狐の頭の皮をそのまま使ったフードが付いている。
全体的に薄汚れてはいたものの、なんだか神秘的で、まるでこの世から浮き上がってるような、僕にはそんな風に見えた。
しんとした空気がその場に漂う。
お互いしばしの間見つめ合った後、ハッと我に返った転生は急いでカバンに何かをしまい、走ってその場から逃げ出した。
それを見て僕も我に返り婆ちゃんを問い質す。
「婆ちゃん! 今のって!」
「そうよ。あの子が転生ちゃんよ。あらぁ輪ちゃんすごいわねぇ。そんな大きな亀が取れたの。でも弱ったわねぇ、今うちにはお塩がないのよ。さっき全部あの子にあげちゃったのだもの」
「なんだって!?」
僕は驚いた。塩がないなら料理が出来ない。肉の保存もできなくなるじゃないか!
婆ちゃんは優しいから、あの子の為に塩をあげたんだろうけど、冗談じゃない! こっちだって余ってるわけじゃないんだ!
「婆ちゃん! 僕、取り返してくるよ!」
僕は荷物を置いて、すぐさま彼女を追いかけた。
山の中で、二人の小さな影が走る。
ハッハッ、と小さく息をしながら二人は斜面を駆け上がり、森を抜け、後ろの影が前の影に追いすがる。
実際は10分も無かっただろう追いかけっこだったが、僕にはなんだか永遠にすら感じられた。
走る。前の影を見失わないように、必死に走る。
その内、ふと周りの光景がなんだか見覚えのある光景に変わっていることに気づいた。
(ここは、でも、なんでこいつが?)
思考がまとまらない。歯を食いしばって走る。
段々と木々が薄くなっていく。林を抜ける。
サァ──...と風が二人の間をかけ抜ける。木の葉が舞い、木々がサワサワと優しく揺れている。
...居た、転生だ。林を抜けぽっかりと開けた土地の真ん中で若いクスノキにもたれるようにしてこちらを睨めつけている。
お互い息が荒く、会話にならない。
(やっぱり、クスノキの園だったか)
辺りを確認して思う。どうして彼女がここを知っているんだ。
息を整え、一歩を踏み出す。
「来んな!」
その瞬間、彼女は背負っていた弓をこちらに向けて振り絞るように叫んだ。
一瞬たじろぐ。でもすぐに気を取り直し、息を整えこっちも叫ぶ。
「返せよ! 塩を! 僕にだってそれは必要なものなんだ!」
──うるさいッ!
二人だけの空間に声が響く。
「お爺が、病気なんだ! 死んじゃうかもしれないんだ! お肉だって満足に食べられなくて、だから、スープしか飲めなくて。 いるんだ! 塩が! 野菜が! 沢山! 毎日ごはん、食べてもらわなきゃいけないんだ!」
......そういう事情だったのか。ここ数日、毎日うちに来てたのは。
優しい婆ちゃんが塩を渡すわけだ。
でもこっちにもこっちの事情がある。
「......うちの婆ちゃんだって、一緒だ。歳なのに無理して働いて、いっぱい体を壊してる。だから美味しいものを沢山食べさせてあげなきゃだめなんだ。元気になってもらわないとだめなんだ」
叫びながら、一歩ずつ近づく。転生が少しずつ弓の弦に力を込める。一文字に結ばれた口元にぐっと力が入るのが分かった。
今、二人はクスノキの真下で向き合っている。
転生が弓の弦を更に強く引き絞り......、そして次の瞬間、ふっと力が抜けたように地面に崩れ落ちた。
「......じゃあ、どうしたらいいの?」
つられて僕もドカっと地面に座る。
「......亀の肉を分けてあげる。僕が今日取ってきたんだ。知ってる? 亀の肉にはじようがあるんだ。これを食べれば君の爺さんだってすぐに元気を取り戻すさ」
「──本当?」
まるで、花が咲いたようだった。
この時の彼女の顔を僕は生涯忘れることはないだろう。
これが、僕と転生の初めての出会い。
僕たちはお友達になったんだ。
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