鯰と泥鰌
文子夕夏
第1話
その沼は人間の暮らす村から程近い、山のなだらかなところを上手に抉ったようなところにあった。
沼にはふて腐れたような顔のどんこや、細くてか弱い沼海老の一族、でっぷりと太った鯰などが、お互いに干渉も大してせずに、ノンビリと暮らしていた。
水底で大きな欠伸をした鯰は、水面から差し込んで来る陽光の角度を見て、思い出したように泥を鼻っ面でグシグシと掘り起こした。丁度一二時だった。この時間になれば、キラキラと白い光が一杯に沼を照らすので、特に沼海老の一族は大喜びして万歳などをするのだった。
「やあやあ、鯰の親分さん」
聞き慣れない声がした。鯰は「はて、こんな声は誰だったか」と鰓をパタパタさせて振り返る。自分と似ているようで似ていない、スラリとした長い体型の魚……最近、近所の池から引っ越して来た泥鰌だった。
「お初、お目に掛かりますんで、この沼は何たって親分さんが一等偉いんですってね」
一口で飲み込めそうな泥鰌は、ヘラヘラと笑って鯰の回りをクルクル泳いだ。しかし鯰はパクリとやったり、身体を起こして威嚇なんて事はしなかった。ただ微笑み、鰭でツルツルした頭を掻いた。沼海老の子供が「鱗を何処に隠したか」と笑いながら突いて来る時があるが、鯰は怒るどころか一緒になって歌うのだった。
「偉いってもんじゃあ無いよ。ちょっとばかし図体がでかいだけさ」
謙遜は鯰の常である。泳ぎが速い訳でも無く、頭の優れている事も無い、自慢出来る事と言えば健啖家で気の長い性格ぐらいだ。泥鰌は「聞いた通りだ」と、目に涙を浮かべて(浮かべた涙はすぐに水の一滴へと消える)、プカリと尻から気泡を打ち上げた。
「隣の池でもひどく評判ですぜ、親分さんは控え目で川魚の鑑ですと」
これ、食べてください――泥鰌は土産に携えた田螺の干物を取り出し、恭しい態度で鯰に献上した。
「おや、これは田螺を干したやつだね。とても美味いものらしいねぇ」
「特にこれは親分さんと同じ、最高の一等品ですよ。丹念に雨水で洗ってから、それから烏や雀の奴が来ない日向に置いて……」
泥鰌は得意気に、それから一〇分もの間「田螺の干物が如何に面倒な土産か」を語った。鯰は身体を揺すって喜んだ。ユラリと水面が動いた。
「それで、何ですがねぇ親分さん」
咳払いを一つやって見せてから、泥鰌は鯰の鰓を愛おしそうに撫でた。晩酌のお供にしようと干物を鰓の中にしまい込んでから、鯰は「言ってご覧」と笑った。
大抵、魚撫で声で話し掛けて来る者は何らかの願い事を胸に秘めている、鯰はもう何十年も生きているから、泥鰌の魂胆は呆れるくらい分かりやすかった。それでも鯰は怒らない、むしろ「出来る事なら手助けをしてやらねば」とさえ思っていたのだ。
さすが親分さん、話が早いや……泥鰌はクネクネと身体を動かした。
「実はですね、私の仕事なんですがねぇ……」
実のところ、川に暮らす魚や海老達はそれぞれが専門の仕事に就いていた。清流に暮らす鮎なら用心棒を、別の川に住む鰻なら不動産を、海からやって来る鮭なら新聞屋を……といったところだ。さて、この鯰にも勿論仕事がある。が、少しばかり専門性が強く込み入ったものだった。
ノンビリとしていて一見、頼り無さげな鯰の生業は如何なるものか? それはこの後にすぐ判明する。
「そう言えばそうだった、君はまだこっちに来たばかりだからねぇ。前は何の仕事をやっていたんだい」
「へい、砂の掃除ですよ」
他の魚や海老達が食い散らかした残骸は、そのまま流れに乗って海へ行くか、流れが無ければフワフワと底に積もるかだ。放って置けば水底は二日と経たずに汚くなるので、泥鰌のような「掃除屋」は必然大量に要る。
「なるほど、だったらここでも掃除屋をすれば良いよ。最近はなり手が少なくてねぇ、是非とも君に――」
「ここからが重要なんです、親分さん」
泥鰌が両鰭をパタパタと動かした。
「私はですね、もう掃除屋なんて懲り懲りです。こっちを綺麗にすればあっちが汚され、あっちで働けばこっちは仕事が溜まる……ほとほと嫌になっちまったんだ」
「ふむふむ、働いている魚は皆、口を揃えて言っているねぇ、それで?」
「それでなんですが、実は親分さんの仕事を手伝いたいんでさぁ」
鯰はちょっとだけ髭をピクリと動かし、「本当かい」と括れの無い首を傾げた。
「僕の仕事は、この長い髭があるから出来る事なんだよ。それにコツもあるんだ、本には載せられない程、細かくて複雑なやつさ」
「髭ならあります、ここを見てくんなさい。ほらね、動くでしょう? これからしっかり、親分さんと同じく地震予報が出来ますぜ」
そう、鯰の生業はまさしく「地震予報士」なのであった。この鯰の親も、その上も、またその上も、ずっと上も……この沼で地震の前兆を、長い髭と積年の勘を総動員して察知、住民達に報せて来た。
湧いて出たような泥鰌一匹に、果たして地震の予報士などが務まるのか?
流石の鯰も大きな唇を歪め、溜息を吐いた。フワリと泥が舞い上がった瞬間、泥鰌はセカセカと残骸を拾い始めた。生来の癖らしかった。
「うーん、やっぱり君には掃除が適していると僕は思うなぁ」
鯰の言う通り、ものの数秒で舞い上がった泥の下は輝くようだった。しかし泥鰌はかぶりを振って語を継いだ。
「親分さん、私もここで一つ、新しい自分というのを見付けてみたいんですよ。分かりました、それなら親分さん、一日だけ私に予報士を任せてください。その間、親分さんは旅行でも行ったら良いですよ」
「旅行かぁ、久しく行っていないからなぁ」
もう一歩だ――泥鰌はまくし立てるように説得を続ける。
「その一日の働きぶりを、他の奴らから聞いてみるんです。出来るか否か、適しているか否か……お願いします、この通りですから」
泥鰌は器用にその場でグルグルと泳いで見せた。見つめている内に目が回って来た鯰は、クラクラしながらも頷いた。
「じゃあ、君に一日任せようかな」
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