35位の青春外伝 僕がここで先輩があそこで

@wizard-T

僕がここで先輩があそこで

 故障に決まっている。そうでもなけりゃ、こんな話は納得できない。嬉しくないのかと言われれば嬉しいには決まっている、でもそれとこれとは話が違う。だいたい僕1人だけが喜ぶという事自体、許されないような気持ちだ。

 東京箱根間往復大学駅伝競走、通称箱根駅伝。僕たち下野大学陸上部は、この大会に数年連続で出場して来た。今年もまたできるだろうと言う油断があった訳じゃない、でも現実って奴は本当に容赦がない。10人合わせて1分36秒、1人当たり10秒にもならないだけのほんのわずかな時間、たったそれだけの遅れのせいで、下野大学は箱根駅伝に出る事が出来なかった。チーム内トップだろうと10番手だろうと、責任は等しい。予選に出場できなかった他のすべての部員を差し置いてのこの有様で、落選が決まった次の日は控えメンバーと顔を合わせるのさえ億劫だった。

 こうなったら先輩に下野大学の代表として、関東学生連合の一員として頑張ってもらうしかないと思った。それなのに!


 この7ヶ月間、ずっと一緒の部屋で暮らしていた先輩。この寮での暮らし方も、大学陸上の走りも、何もかも教えてくれた先輩。その先輩のおかげで僕は1年生にして予選参加メンバーにも選ばれた。

「お前のようなやつがうちに入ってくれて俺は嬉しかったよ。まだお前には3年間の時間がある。慌てる必要はどこにもない」

「だとしても」

「俺はもう決めたんだ、あの時にな。ああ言っておくがお前が気に病む必要は全くない。俺がここまでだったと言う事だ」

 こんなにすがすがしい顔をされるとかえって痛々しく思えて来る。本当は箱根を走りたかったんだろう事は見え見えだ、しかも花の2区を。1年生の時から2区を走って来て下野大の孤高のエースなどと言われて来た先輩、来年その先輩がいなくなるうちの大学は箱根を走れないのではないかと言う批評を目にした事もあった。

「監督も言ってたよ、俺とキャプテンに。次のエースはお前だって」

「次のエース!? それ本気で言ってたんですか? ねえいつ何時、どこでですか? 確かに箱根予選ではそれなりに走れましたけどでも10000mの持ちタイムは部内で8番目に過ぎませんし」

 確かに、僕のタイムは予選でチーム2番目だった。だからと言って1番目である先輩がいなくなるからはいエースだなんて短絡的すぎやしないだろうか。どうしてですか、どうして監督は僕の事をそこまで。僕は中腰になって胡坐をかいている先輩の顔を凝視しつつつばをかけながら舌を派手に回し続けた、

「お前よ、俺がお前にして欲しい事が何かわからないのか」

「ああすみません、練習して来ます」

 僕の唾液で顔を湿らせられても一向に気にしない様子でいた先輩だったが、僕の練習して来ますと言う言葉を聞くといきなり立ち上がって僕の胸ぐらをつかんだ。

「お前は何を目指してるんだよ!」

「それはもちろん、先輩の様な優秀なランナーに」

 先輩の声にそう素直に答えた結果、先輩は僕の胸ぐらをつかんだまま僕をなぎ倒した。数センチの距離で見る事になった先輩の顔はこれまでのどの競走の時よりも殺気だっていた。目は全力で見開かれ、虫歯が一本もない歯が歯茎までむき出しにされている。

「お前はこの7ヶ月間、俺と一緒に練習していったい何を見て来たんだよ!」

「それはもちろん、先輩の……フォームであり姿勢であり、それから…」

「だったらはっきり言うよ、俺みたいになるんじゃねえって!」

 今度は先輩のつばをその顔に受けながら必死に抗弁しようとしたが、全く思いもよらない言葉が飛んで来て何も言えなくなった。

「最初は思ったよ、これまで一緒にやって来た4年生じゃなくてお前と相部屋っつーのはどういう事かってよ。でもいざそうなってみると実に馬が合うんだよな、なんていうか疲れないって言うか……お前と出会えて俺は良かったよ、ずっとうちが箱根に出る事は出るけどで終わってたのはなぜかってこの3年間考えてたんだ、そしてようやくわかったんだよ。エースである俺がかけっこのナンバーワンだったからって事に」

 かけっこのナンバーワン。確かに近所の空き地でかけっこをやれば間違いなく先輩がナンバーワンだろう。でもそれはあくまでも近所の話であり、よそでも勝てるかはわからない。確かに先輩は下野大学では最強のランナーだったが、花の2区を3回走って最高が区間12位。20校の中では半分より下だ。

「お前にはエースとして、いや将来は主将としてうちを支えて欲しい。お前が俺のコピーで終わるって言うんならうちはもう二度と箱根には出られない、出たとしても今と変わらない弱小チームだ。それだけは嫌だろう!」

 先輩は僕に反論の余地などやらんと言いたげに声を張り上げる。僕と同学年の奴が遅刻しておいてヘラヘラしていたのを怒鳴りつけた時よりも声が大きい、僕にやはり先輩こそ下野大学の顔だなと思わせたあの時以上だ。

「もち……ろんです……」

「だったらお前はお前の考える下野大の走りをしろ、俺の真似をしようとするな。わかったらはいと言え」

「はい……」

「じゃあお前のしたい事をしろ!」

 そこまで言うと先輩は体を起こし再びあぐらをかいた。相変わらず歯は剝き出しのままではあったが目は笑っている。僕は顔をぬぐいもせずにシューズを履き、グラウンドへ駆け出した。風はほとんどなく、薄日が差すだけのグラウンドはまさに最適の環境だ。いつまでもぐずぐずなどしていられない。僕はその思いをもって1人きりで10キロを走り、自己ベストをほんのちょっとだけ更新した。そして僕が部屋に帰って来ると、先輩はベッドに寝そべったまま何も言わなかった。




 次の日、正式に先輩の辞退と僕を推挙する旨監督から告げられた。今日からは下野大学の30分の10ではなく、関東学生連合の16分の10の戦いが始まる。関東学生連合とは、予選で落選したチームの代表をかき集めたチーム。記録は何も残らず、ただ走る事だけが目的のチーム。でもそれだけに、みんないろんな思いをもって挑む事になる。昨日の友は今日の敵ならぬ、昨日の敵は今日の友、いやそれと共に敵だ。

 16人の中で、下野大学のユニフォームを着るのは僕一人、16人の中から6人を蹴落とさねば箱根は走れない。一応予選のタイムでは16人中8番目だったが、だからと言って油断できるわけではない。1日1日が、真剣勝負。目の前の15校とその先に待つ20校のライバルたちに、自分だってやれると言う所を見せつけねばならない。

 短い期間ではあるが合宿もする。その際に相部屋になったのが関東基督教大学の3年生、16人の中で予選の持ちタイムが2位である秋田さんだ。僕がトレーニングを終え、部屋のドアを開けた所秋田さんが見た事のないぬいぐるみを手にしていた。

「ああこれ、うちの部長の葉野さんからもらったんだよ。まあ葉野さんの趣味って奴で」

 およそ陸上部にはふさわしくなさそうな、女の子のキャラクターのぬいぐるみ。どうしてそんな物をと思ったけどそれが向こうの部長の思いの品ならば僕は何も言う必要はない。でも考えてみれば僕はそういう類の品を何も先輩からもらっていない。なぜだろう、後の事はお前にとか言ってたのに。

「欲しいならやるよ」

「いや物珍しいなと思っただけで……それで葉野さんはこれを秋田さんに渡す時に何か言ったんですか」

「単に頑張れよ、ってだけだよ」

 汗臭さがよく似合うような学生スポーツの寮にはどうにも不釣り合いだけど、それが却って自分の存在感を強く自己主張している気がする。もしうちの寮にこれが置かれる事になったら、どれだけの時間をかければ存在感を消す事ができるのかとんと見当がつかない。そして頑張れよ、か。僕は先輩からそんな言葉さえもらっていない。なぜ先輩は僕に何も渡そうとしないのだろう。

「葉野さんは怪我とか」

「してないよ、怪我とかするぐらいの方がむしろ強いのかもなとか言ってるぐらいで。それとも怪我でもしてた方がよかったの」

 そんな事全く思ってませんと吠えかかりたかったが、あごが動かない。競争相手の失敗を望むだなんてスポーツマンにあるまじき行為じゃないか、こんな言いがかりなど否定してしかるべきだろうに。だと思っているのに動くのは舌とのどばかりであごが全く動かず、ああと言う音ばかりが口から出て来た。

「口が滑っちゃったみたいだな、ごめん」

「いえそんな、僕は決して競争相手の……いや本当に」

 怪我でもなければここにいるのは僕じゃない、先輩のはずだ。箱根の落選が決まってからと言うものの、僕は練習ばかりしていた。そして先輩はそんな僕に何の言葉もかけようとしない。嫌われたのか、見捨てられたのか。

「今すべき事はさ、いかに速く走るかって事だろ。できれば10人のメンバーに入り込んで他の20校に対して存在感を示してやるか、それが下野大学の全てのランナーの望みだろ。うちだってそうだけど」

 今の僕は下野大学の代表、僕の走りが下野大学の走りなのだ。好走するか凡走するか走れないか、それこそが僕にとって一番大事な事のはずだ。先輩だってその事を望んでいるに決まっている。何をぐずぐずしているんだろう。

「ありがとうございます。でも味方であり、敵ですから」

「まあそうだよね、再来年こそは自分のタスキで走るため、そうだよね」

 秋田さんもまた、その事を実感したんだろう。チームとしては味方でも、枠を争うと言う一面では敵。2人とも走れればそれが一番いいけど、片方だけしか走れないかもしれないしあるいは2人ともダメかもしれない。とにかく余計な事を考えている暇などない、全力を出して走らねばならない。

 マラソンランナーとは2時間以上、孤独な戦いを強いられる物。じっと我慢する事は必須条件のはずだ。この先の人生がどうなろうが、必要不可欠な物のはずだ。先輩は今、僕にその忍耐力を付けさせようとしているのだろう。そうだ、そうに決まっている。僕は気合を入れ直すべく水を飲み干し、誰もいない夜のグラウンドに向けて叫び声を上げた。


 そのおかげと言う訳でもないだろうけど、僕は見事学生連合のメンバーに起用される事になった。

「お前か、学生連合のメンバーに決まったんだってな。おめでとさん!それでさ、俺はその日さ」

 それなのに、先輩の言葉はあまりにも残酷だった。僕は学生連合の指揮を執る事になった東亜大学の監督を恨みたくなり、そしてすぐ東亜大学のランナーが入っていないと言う現実を思い出して自分の頭をスマホに打ち付けた。私情を捨ててベストのオーダーを組んだ結果、こうなったのだろう。とは言え、先輩の明るい声が僕には辛かった。合宿が終わり学校に帰ってからも、僕は先輩と何を話す気にもなれない。見続けていると視線が足ばかりに向きそうだったので僕は部屋の中ではDVDばかりを見た。

「もっと面白いもん見ろよ、もうすぐクリスマスだろ」

「これが一番面白いんです」

 本来ならば先輩が見ていたDVD、いや部内の全員で見ていたはずのDVD。美食も孤食ではうまくないとはよく言った物だ、本来ならば例え16人から弾かれてても面白く見られるはずだったのに。僕はクリスマスの喧騒に背を向けるように、過去の箱根駅伝のDVDと共に年を越した。後ろを向くと先輩が、どうしようもねえなと言いながら部屋へと去って行っていた。寂しさに満ち溢れているはずなのにどこか力強い背中、この背中を箱根路に持って行けなかった悔しさが込み上げて来る。


 1月3日。戸塚中継所の風は、奇妙なほどに生暖かい。結局オーダー変更はされなかった。されて欲しかった気もするし、これで良かった気もする。2日間の中で、たった1回しか出番のない下野大学のユニフォーム。僕だけが着る、下野大学のユニフォーム。

 関東学生連合の現状はまったく楽観できる物じゃない。往路終了時点で既に繰り上げスタートであり、6~9区の4人の間に先頭からあと10分遅れるとタスキが途切れてしまう。僕が失敗すればタスキを途切れさせる事になるかもしれない、僕が無事でも次でという事になりかねない。そんな状況での8区と言うのは実に嫌なポジションだ。でも誰かがやらなきゃいけない。それはわかっている。

 しかしよりにもよってと言わざるを得ない。確かにあの辺りは人が多い、必要なのはわかるし高校時代からテレビでも見ていたけどなぜそうなるんだろうか。

 お前は俺の顔を見たくないのかと言われても、できる事ならば見たくない。予選を落選してがっくり来ていた時の顔の方がまだ見られる。とにかく、下野大学のユニフォームを着ていない先輩を見たくなかった。

 赤くてきれいなコート。でも今の僕には血の色にしか見えて来ない。予選を一緒に走ったたくさんの学校のランナーが着ている、スタッフとしての役割を雄弁に示すコート。それが今日先輩の着る服だ。

 あの時から、先輩は何も内容のある事を言ってくれない。まるで魂の抜けがらのようだ。卒業後も陸上をやるのか否かと言う話すら聞いていない。監督や新キャプテンに聞いても答えてくれなかった。その度にもやもやを吹き飛ばすべく僕は走ったし、筋トレもしたし、勉強もした。その結果タイムも成績も向上したのだから喜ぶべきかもしれないが、どうにも気分が晴れない。

 僕があそこで交通整理員をやっていて先輩がその後ろを走るのならばまだわかる!でも現実は逆だ。どうしてこうなったんだ、やっぱり先輩はどこか悪かったんだ!だったらどうして何も言ってくれないんだ!

 ああ、もう先頭が7区に突入した! もう時間はない、腹を括るしかない。でもいまだに僕の心は全く落ち着かない。右足をアスファルトに激しく打ち鳴らしても全く気分がすっきりして来ない。 えっ、僕に電話だって? もう、タスキリレーまであと1時間ほどしかないのに! あっ先輩だ。ちょっと、今さら何なんですか!

「…………実は予選の後、右足首をやっちまってな。悔しいけど、お前に任せるわ」

 その言葉が、僕にとっては一番の宝だった。それならばその後も毎日10キロ走っていたのは何なんだという話だが、それでもいい。不謹慎とかスポーツマンシップとか品性がどうとか、そんな事はどうでも良かった。先輩が元から箱根を走れなかったと言う事実だけが、僕にとって必要だった。

 急に風が涼しく感じて来る、ようやく気力のやり場が見つかった気がした。気温と同時にテンションも上がってくる気がした、こんな気持ちは2ヶ月半ぶりだ。

ああ、学生連合のランナーが来た。僕はタスキを受け取り、コースへと飛び出した。たった一人の戦いが、今始まる。遊行寺坂に立つ先輩、見ててください。

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