無題

棚橋 西寺

怠惰

ああ、ああ、ああ。

わざわざ低く呻きながら便器から頭を持ち上げた。

粗末なトイレットペーパーで顔を拭く。乱暴に擦って放り、水で流して個室を出た。


ああ、憎たらしい。あの男。

深酒も、夜遊びも、阿婆擦れも、私に良くないんだとさ。昔はそんなんじゃなかったのに、全くもって似合わないんだとさ。眼鏡の奥に心配げな瞳を作って、お説教と来たものだ。ああ、畜生。煙草をテーブルに忘れたようだ。クラブにいたはずだったのに、いきなりあいつに引っ張り出され、しけたファミレスのトイレで嘔吐。どうしてだとか、分からないよ。私にはもう誰の気持ちも分からないし、私を突き飛ばし続ける掌が誰のもので何の為なのか。振り返って問う事すら忘れてしまうのだ。今もほら、洗面台までふらつきながら来ておいて手を洗うことを失念してる。それは怠惰だ。酷い怠惰、全くもって酷い顔。涙も鼻水もそのまんま。真っ赤な口紅は頬まで広がって、その端にトイレットペーパーが張り付いている。全くそう、煙草を、あ、畜生。


顔を上げて鏡を睨むと女が映っていた。いつ入ってきたのだろう。脳みそで響く雑言が煩くて気が付かなかった。

彼女は彼女で俯いていて、私を認識していなかった。小さなエナメルのバッグをまさぐっている。今のうちに踵を返してホールに戻れば、みすぼらしい顔を見られずに済んだろう。それでも私はしなかった。あいつの座る席へ戻るのだと思うと気が乗らなかったし、そのエナメルから何が出てくるか知っていたからだ。


「一本くれない」

火を付けようと顔を上げた彼女と、鏡越しに目が合った。少し強張った後、困ったようにふと微笑んだ。ああ、まただ。私はこの顔をよく知っている。捨て猫の気分だ。


あいつはクラブなんて行かない。けれど、一度だけ見たんだ。女に連れられてちびちびと酒をやっていた。だから色んなのに声を掛けてさ、それとなく聞き当てたんだ。最近出てきたDJの姉が、眼鏡の男を連れてくる。まずそうに酒を舐めて、喧しそうにしかめ面、煙草の煙に咳き込んでばかり。あのDJはなかなか良いのに、姉の趣味はいまいちだそうだ。


爪先からすり抜けたハイヒールが、甲高い音を立ててタイルの上に転がった。

絡む舌に夢中な振りして、自分の行為を嘲笑する。アルコールで霞んだ脳みそでは、いつからそうしているのか思い出せない。私は洗面台に腰かけて、見知らぬ女とキスをしていた。煙草は吸ったのだろうか。それすらも。

彼女は私の頬を両手で包み、額を合わせて息をついた。うっとりと微笑んで、私の瞳をのぞき込む。

「ああ、あなた、かわいそうで可愛いわ。どうしてそんなに必死なのかしら」


必死。そんなつもりは全くなかった。


「私は」

唇が震えていた。声は酷く掠れていた。

とにかく泣きたくなった。あいつの居ない、あいつから一番遠い遠い隅っこで、シーツに滲む涙がじわりを熱を持ってそれから冷えていくのを感じたかった。

「今夜、泊めてくれない」

彼女は私を抱きしめて、洗面台からゆっくりと下した。

落としたヒールを突っかけて、彼女の引き連れホールに戻る。扉を蹴って、大股で、わざとらしく靴音立てて、あいつのとこまで一先ず戻った。


「用事が出来たから、今日は帰るわ」

「おい。それはどういう事だよ。逃げるのか」

散々っぱら待たされた男は怒っていた。それでも私の顔を見ると、少しの狼狽が瞳を陰った。引き攣れた口紅、滲んだマスカラ、そんな辺りでも見てるのだろう。私はテーブルに散らかった煙草やライターを拾い上げ、お札を一枚叩いて置いた。折角なので、栓を開けて手を付けていなかったガラナの瓶をひったくる。

「吐いたのか?…泣いた?」

「どうでもいいでしょ」

何か言い淀んで口をまごつかせたのが苛ついた。ガラナを投げつけたくなる衝動を抑えて、レストランの玄関へ向かう。

名も知らない彼女は、外で私を待っていた。ああ、何ていい女なんだろう。どうしてあいつとこうも違うのだろう。


カランと鳴るドアを押して外へ。胃液の残る鼻の奥が、冷気を吸ってツンと痛んだ。

「はい、どうぞ」

女を振り返ると、煙草の箱を向けられていた。結局キスの前には吸わなかったのか。一本取ると火をつけてくれた。煙を吸って、風に吐いた。


あいつはね。そのDJの姉って女となら、嫌いなクラブにも行くし、苦手なアルコールも飲むんだよ。私がいくらフライヤーを読み漁って、足繁くクラブに通って、偶然気取って出会うことも出来ず自棄酒煽って何処かの誰かに拾われて、あの掌に突き飛ばされてがたりがたりと崖を転がり落ちて手負いの動物みたいになってしまったって、これくらいのもんなのさ。

分かったところで、何の足し前にもならない。滅茶苦茶に酒を飲んで、ふらつき歩いてセックスをして、喚いたりがなったりしながらそこいらのごみのように朽ちていきたい。満たされない。もうすでに溢れかえっているのに、ひとつも満たされない。


隣の女は自分の分も火をつけて、赤いネイルで私の背中をそっと押した。彼女に誘導されるまま、私は店の段差を降り、暗い路地を千鳥足で進んでいく。


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無題 棚橋 西寺 @tnhsh_saiji

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