『それは忘れ去られてしまうもの』

ゲレゲレ

第1話 液体は誘う

それは、ただのどろりとした液体に見えた。


若松翔わかまつ しょうは下校中に遭遇したそれを見て違和感を覚えた。

昨日は晴れていたし、本日も晴れであったはずだ。

何故、そこに水たまりがあるのだろうと、近づいて行く。


どろりとした液体は、鈍い光を反射しながらゆらゆらと揺れていた。

周囲の道路のアスファルトはからからに乾いていた。

誤って落ちた汚水のようだったが異臭はしなかった。


翔が小学校に入学する時、母と一緒に選んで買ってもらったシューズを履いている。


横には羽のイラストが描かれていた。

羽は本来は赤い色をしていたことを思い出す。今は黒い。


買った当初は頬を赤らめて満足していたが、同じクラスの男子に、その靴は女子の様だとからかわれ、挙句の果てには靴を取り上げられ、こうすれば男子らしいだろうとマジックで塗りつぶされてしまったのだ。


きっと帰ったら母に叱られる、それとも悲しむだろうかと翔は考えていた。

学校では友達と仲良くしていると家では言っている。

無意識に遠回りの道を選んで、そして、この水たまりを発見した。


周囲に住宅は無い。


見渡すばかり田畑が広がる見通しの良い道路であったが、人っ子一人いない。

晴れているのだから、どこかの農家の老人が田畑の作業をしていてもおかしくはないのだが、この日は誰も作業をしていなかった。


翔には母からもらった靴をマジックで塗りつぶしてしまった罪悪感があった。

少し迷ったが、意を決して、水たまりに向けて翔は走り出した。


転んで汚してしまった事して自分で洗うと言えば、もしかしたらマジックで塗った部分を母に気づかれず落とせるかもしれない。

一度翔がカレーをシャツに落とした時、漂白剤で母が汚れを落としていた所を見ていた、あのやり方で落とせるはずだ。


力強く地面を蹴って翔は水たまりに向けて飛び跳ね着地しようとする。


「お母さん、ごめんなさい……」


呟いて、着地の瞬間、水たまりと思われたどろどろとした物体が、急に分散して四方八方に広がった。


「え?」


数秒の出来事だった。


分散した水たまりの液体は、翔を包み込むように覆った瞬間、そのまま空に飛び去った。


誰もいない田園の中。

乾いたアスファルトの道の上には、水たまりなど無かった。


空から金属製の定規が落ちてアスファルトにカツンと音を立て転げて、草むらで止まった。



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