-EDEN-
悪徳担う蛇
第0話 【親愛を、あなたに】
靴底が土を踏みしめる音が響く。
時刻は深夜。
多くの生命が眠りにつくその時間帯、微かに残った光を淡く溶かし込む夜の闇の中を一人の少女は歩く。
涼やかな微風が辺りの木々を揺らし、天から注いだ月明かりが彼女の白い肌を妖しく照らし出す。
彼女の行く先を示すようにして辺りにぽつぽつと浮かび上がる小さな蛍火が揺れ動き、その中を彼女は淑やかな歩調で淀みなく歩み続ける。
夜の森――進めば進むほどに濃くなるであろう闇はしかし、その場は例外だと言わんばかりに天と小さな命の灯りに挟まれ、穏やかな暗さを宿すのみ。
心地良い暗闇を彩る葉の擦れる音と、それに紛れて届く囁くような虫の音。
それらに合わせるように、一歩一歩土を踏みしめる彼女の足音はやがて止まる。
見渡せば闇とそれを挟み込む二つの光、そして木々ばかりであった場所から、今彼女の前に広がるのは広大な湖。
思い出したかのように吹く微風は湖面を揺らし、映り込む月明かりをまばらな輝きとして散らす。
夜の闇のなかであっても変わることのない透明感を放つ湖の淵で彼女は暫し目を閉じる。
目を閉じ、微かに顔を月へと向けた彼女は数瞬何かを思案したようだったが、何事も無かったかのようにして薄っすらと目を開ける。
そしてここに来るまで履いていた靴を脱ぐと、服を着たまま湖へと足を向ける。
そこに一切の戸惑いは無く。
粛々とした動きで彼女は歩み、湖面へと静かに足先をつける。
ちゃぷ、と一つ楽しげな音を立てて足先を湖へと沈めると、もう一方の足も後を追うようにして湖の中へと沈んでいく。
ゆっくり、ゆっくりといっそ緩慢に見えるほどの動きで湖へと浸かった体は先へ先へと向かう。
彼女の身につけたままの服――白を基調とした儀礼用に見える薄衣の服は濡れることで肌に張り付き、その艶めかしくもほっそりとした肢体を示す。
太陽の暖かさを残していない水の温度をさして気にした様子もなく、次第に深みを増したことで胸の下あたりまで湖へと浸かった彼女はそこで再び歩みを止めた。
「……」
頭上で淡く輝く月を見上げて彼女は薄く微笑むと、まるで天上に座したそれを掴まんとするがごとく右手を掲げる。
その上に向けられた掌はあまりに小さく、ちっぽけで。
掌には到底収まりきらないような大きな、とても大きな月へと手を伸ばした彼女は――その手首を左手で切り裂いた。
溢れるように流れ出した鮮血が宙を舞い、透き通る湖へと落ちることで微かな濁りが拡がっていく。
溢れ出したその血は彼女の腕を伝い、真っさらな体を赤に染め上げる。
清らかな風景に似合わぬであろう、濃密なまでの“死”という現象を体現した少女の組み合わせは、何故か幻想的なまでに美しく。
この光景を見る者がいたのだとしたら、その者はきっと“死の美しさ”を口にし続けることだろう。
そして、そんな異様な美しさもやがて終わりを迎える。
湖が赤に染め上げられた頃に、月のものではない淡い輝きが溢れ始める。
月の明かりをそれまで反射するだけでしかなかった湖自体が輝きを放ち始め、その色は少女の血と同じ赤。
いや、色が同じなのではなく――きっと彼女の血がその色へと染め上げたのだろう。
そう言ってしまえるだけの異様な美しさが彼女の血には存在していた。
湖底から湧き出るようにして地上へと奔る赤光が辺りの闇を容赦なく駆逐する。
青の闇は赤の光に。
緋色の輝きに夜の闇が包まれ、そして――。
これは始まりの光景か。
或いは終わりの光景か。
そのどちらでもある。
全ては始まりと終わりを知り得る者だけが繰り返す、壊れた夢の跡。
その一欠片。
これより語られるはその壊れた夢に報い、そして抗う者たちの話。
正しき者が報いるのか。
正しき者が抗うのか。
違えた者が報いるのか。
違えた者が抗うのか。
あぁ、ただ――。
ただ、願わくば――願わくば、
最悪の結末へと至らんことを。
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