シェフ 一

 ふと思いついた自分は、地面で転がっていた彼に声を掛けた。


 ちょっとそこのカフェでお話しませんか? みたいな。


 我ながら怪しいにも程がある勧誘である。しかしながら、リストラを宣言された直後の彼は、どこか呆然としており、思ったよりも素直に我々の声に耳を傾けてくれた。というよりも、心ここにあらずといった様子で付いて来てくれた。


 訪れたのは、同じ通りを少し進んだの飲食店。


 その奥まった席でエプロン姿の彼と、向い合せで腰を落ち着けている。


 卓上には取り急ぎ注文した飲み物だけが並ぶ。


「はじめまして、佐々木と申します」


「あ、どうも。フレンチといいます」


「フレンチさんですね」


「ところで、あの、い、いきなりどういった話でしょうか?」


「いえ、なにやら大変そうな話を耳にしましたので」


「……恥ずかしい限りです」


 こちらの世界を眺めていて、ふと思ったことがある。


 つい数刻前、日本での一時間がこちらの一日に相当することを喜んだ自分ではあるが、それは決して良いことばかりではない。何故ならば平日の日中帯、自身が会社に出ている間に、こちらの世界は半月から一ヶ月ほど時間が進む。


 もしもこちらの世界で何かしようと考えたら、それは意外と馬鹿にならない時間差になる。昼休みの休憩を活動に当てたとしても、数日というスパンが世界を行き来する間に発生する。今後の商売を考えると、これはなかなか大変だ。


 そうした世界間の差異を補う為にはどうしたらいいのか。


 現地の知り合いを増やす他にないと考えた次第である。


「あの、ササキ様は貴族様でしょうか?」


「貴族?」


「とても質の良い服をお召になられておりますので……」


 なんということだ、スーツを褒められてしまった。


 こんな吊るし売りの安物であっても、貴族の衣類と間違われるほどの価値があるらしい。やっぱり衣類の値段がとても高い。身分が上に見えるのは決して悪いことではないので、今後ともこちらを訪れる際にはスーツを着用して臨むとしよう。


「いいえ、自分は貴族ではなく商売人でして」


「なるほど、商人の方でしたか」


 少しホッとした表情になりシェフの人が言った。


 彼の態度から鑑みるに、貴族と平民の間には高い垣根があるのだろう。この辺りもいつか暇を見てピーちゃんに確認したいものだ。今は間違われる側だったから良かったけれど、逆の立場になったら大変である。


「もしよろしければ、事情をお聞かせ願えませんか?」


「え? あの……」


「貴方の力になれるかも知れません」


「…………」


 初対面の相手にこんなことを言われたら、普通は疑るだろう。


 自分だったら即座に店を出ている。


 しかし、飲食店の前で親の仕送りがどうの、行くところがないの、声も大きく叫んでいたのは決して伊達ではないようだ。かなり追い詰められた状況にあるらしく、しばらく待ってみると、ぽつりぽつりと語り始めた。


 端的にまとめると、なんでも職場の同僚に騙されたらしい。


 飲食店で丁稚として小さい頃から働いていた彼は、ここ数年、料理人としてメキメキと腕前を上げていたそうな。そんな彼に嫉妬した同僚から、店のお金をちょろまかしたとかなんとか、嘘の嫌疑を掛けられてしまったそうな。


 そして本日、店主への説得も虚しく放逐されてしまったらしい。


 自身が居合わせたのは、その決定的なシーンであったようである。


「それは大変なお話ですね」


「自分は小さい頃からあの店で務めておりました。何をするにしても料理一筋だったんで、世の中の仕組みにも疎いんです。字も碌に書けません。だから、あそこを首になったらどうすればいいのか、まるで分からないんです」


「…………」


「このままだと家族への仕送りも止まっちまいます。親は兵役で足と目を駄目にしちまってて、今じゃ働くこともままならないんです。他に妹がいるんですが、こっちは女の身の上、親の世話もあってそう多くを稼ぐこともままならない」


「それはまた大変なお話ですね」


 シェフの人の語り草には、絶望感がひしひしと感じられた。このまま放っておいたら、翌日には自殺しているんじゃなかろうかと、ふとそんなことを考えてしまうほど。どうやらこちらの世界は、自分が考えていた以上に社会保障が手薄いようである。


「……すみません、見ず知らずにお方にこんなことを」


「いえいえ、声を掛けたのはこちらですから」


 小一時間ほど話をしてみたが、根は悪い人物ではなさそうだ。


 そこで一つ、本日の売上金を投資してみることにした。


 世間的には大金かもしれないが、ピーちゃんの援助を受けられる自身にとっては、そう苦労なく稼ぐことができる金額だ。今回は仕入れもリュック一つであったけれど、次からはもう少し大掛かりな装備で挑む予定である。


 気分的には街頭募金に紙幣を突っ込むような感じ。


「もしよろしければ、私と一緒に店を出してはみませんか?」


「……え?」


 シェフの人の目が点になった。


 もしも彼が本当に優れた料理人であるのなら、我々としても益のある話だ。お肉が大好きなピーちゃん。その舌が満足する味を追求することは、好き勝手に生きたいと語っていた彼の願いに合致する。当然、飼い主である自身も嬉しい。

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