第10話『それは少しの絶望から始まった。前編』

「……瀬海さん、なんで」

「……」

彼女は答えない。それどころか、またピアノを弾き始めた。

柔らかく、穏やかな音色が、僕の耳に届いた。


リストの『愛の夢』。


「……あの、そこ譲ってもらってもいいかな?」

「嫌です。ここは、先に私が使ったんですから」

きっぱりと言われた。でも、そこを退いて貰わないと。

「……日課なんだ。そこでピアノを弾くのが」

「……日課?」

怪訝な顔をする彼女に、僕は静かに頷く。

「……文化祭で有志のパフォーマンスがあるって言ったでしょ? あれで、ピアノを弾こうと思ってるんだ。だから、その練習」

すると瀬海さんは、何か思い出したように演奏を止めて、顔を僕の方に向けた。

「……まさか、その曲って」

「うん、『BRILLIANT WINTER』だよ」

それを聞いて、瀬海さんが心底呆れたようにため息を吐いた。

「……まさか、あのヘタクソなピアノで?」

「うっ、そこまで言わなくてもいいじゃないか……」

って、どうやら聞かれてたらしい。恥ずかしさでどうにかなりそうだった。

確かに、ピアノの超上手い人があんなのを聞いたら失笑ものだろう。


「ヘタクソなのは事実です。……それにしても、何故あの曲を?」

「……恩返しかな。一言で言うと」

「恩返し、ですか?」

ゆっくりと、こちらの真意を探るような言い方だった。

「……好きなピアニストが、引退しちゃってさ」

「あー、なるほど。それに感化されたわけですか」

「そう。そんな、感じかな……」

空気が重たい。胸の奥がギュッと締め付けられる感じがする。

何とか穏便に済ませられないだろうか。

「……」

瀬海さんが演奏を止める。そして彼女は僅かにためらった後、鍵盤に指を置いて三曲目を弾き始めた。


「……あっ」

その瞬間、張り詰めていた空気が、ガラリと転回した。

この音の進行。何十回も、何百回も聞いた。

あの曲、『BRILLIANT WINTER』だ。

「瀬海さん……」

白黒に見える視界の中で、ハッキリと捉えた。

不思議と輪郭はクリアで、彼女の髪の揺れる動き、鍵盤を躍動する指はスローモーションに感じる。

ピアノの旋律だけが耳に届く。いつもより、何倍も大きく、美しく。そして、柔らかく包み込んでいく。


気がつけば、僕は聞き惚れていた。

僕のモノクロの世界に、色が付け足されて行くような錯覚を覚えた。

「……音は、繊細なんです。だから、そんなガチガチに弾いてはいけないんですよ」

穏やかに語りかけてくる瀬海さんは、いつもの気怠げな彼女とは別人に見えた。

そして、唐突に演奏が止まる。


「あぁ、どうぞ」

彼女は椅子から立ち上がり、カバンを手に入り口に向かっていく。

僕はそれを見送って、一瞬考えた。

「……」


彼女に、教わりたい。

彼女に感じた不思議な既視感も、理解不能だけど不思議と惹きつけられる人柄も。

もっと、知りたい。

あの人に恩返しをするためには、彼女の力がいる。

漠然としたものじゃなくて、判然とした。


そう、例えるなら暗闇に射した一筋の希望の光のような。

都合のいい考えだろうか。

でも、僕はそうは思わない。

これはきっと運命で、宿命で、因縁なんだ。たぶん、ずっと前から決まっていた。

だから、お願いです。僕に一歩踏み出す勇気を、|綾音さん(・・・・)!


「……あ、あのっ!!」

「うわっ、びっくりしたぁ!」

彼女はギョッとしていた。そして僕の真剣な表情に、訝しむような顔をしていた。

「あのっ、もし良かったら僕と──────」

「……」

届く。あと、もう一声。

「いや。……もし良かったら、僕のピアノ、レッスンしてくれませんか!」

勢いよく頭を下げる。

心臓の鼓動が痛い。かつてないほどに、心臓がバクバクしていた。


でも。

僕は、ここでようやくスタートラインが見えた気がした。


彼女の答えは?


「あの。……顔、上げてください」

僕は礼の姿勢からゆっくりと戻り、彼女の顔をを伺った。

「……そう言われると思いましたよ〜。ま、私ってば過去にコンクールで何度も優勝取っちゃってますし? そりゃ素人のあなたが私に教えを乞うのは当然ですよねぇ!」


なんか、予想と違った。嬉々として語ってる。でも、どこか無理をしているような感じがする。


「──────でも、残念ですね。……私、もうピアノを弾くのはやめたので」


「え、ええっ!? なんでさ!」


彼女が音楽室から出て行くのを慌てて追いかける。


「コンクール、ありますよね」


彼女が急に立ち止まり、そんなことを言った。後ろ姿だから表情は分からない。でも、背中で分かる。どこか悲しそうだ。


「え、あ、うん」


「私、ピアノが弾けなくなったんですよ。正確に言えば、何百人という人がいる場では、弾けなくなったんです」

「それって」

致命的だ。大勢の前で弾けなくなるのは。

「流石にヘコみましたよ。私のアイデンティティは、ピアノだけでしたから」

僕は何も言えなくなった。何も言えない僕の代わりに、瀬海さんが聞いてきた。

「恩返しがしたいピアニストって、誰なんですか」

言われて、ハッとした。

そうだ、まずはそれを言わなければならないのに。

「『Kotone』って、ピアニスト。瀬海さん、知ってる……?」

彼女の息を呑む音がはっきりと聞こえた。

「大丈夫?」

「あ、はい。……じゃあ、一つ忠告しますね」

「う、うん」

「そのKotoneってピアニスト、きっと恩返しなんて望んでないですよ。……だって、届かないのに」

自嘲気味に、そんなことを言っていた。

僕は少しだけ沈んだ心を落ち着かせて、もう一度浮上させる。

「うん。確かに、届かないかもね。それでもね、やるって決めたんだよ」

「なんで……」

彼女の声が震えている。それでも僕は構わず続けた。

「それは言えない。僕の中の秘密だよ」

「秘密って……」

「でも一つだけ言えるのは、その人のおかげで、もう一度頑張ろうって思えた」

伝えなきゃいけない。ここで伝えないと、たぶん……

「帰ります。さようなら」

「瀬海さん!!」

僕の言葉を振り払うように走り出した彼女を呼び止める。


「ありがとう」


それを聞いた彼女は今度こそ、走り去って行った。

さて、これが吉と出るか、凶と出るか。

悪いことをしたと、憂鬱な気分になりそうだった。

それでもやらないと。

「……行こう」

僕は日課をこなすために、音楽室に戻った。

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