10-8 彼女


 十二月の曇った空は散った光の粒で白く、眩しかった。

 もう何度となく歩いた道を歩きながら時計を見る。もうシビュラは先に行ってしまっただろうか。最初にあの場所を待ち合わせ場所にしたとき――もう随分前のことのような気がする――もし俺がもうこんなことに付き合うのはうんざりだというなら、ここに来なくてもいいと、彼女は何度も念押ししていた。だから、もしもシビュラがもういなくなっていたら、俺は最後の挨拶をし損ねることになるだろう。

 俺は彩芽の願いに従うことを決めて、しかし最後にシビュラに会わせてほしい、と彼女に頼んだ。彩芽は最初渋っていたが、シビュラにもう殺されないということを伝えないと彼女が二人に相談するかもしれないということを示唆したら、許可してくれた。

 ずっと心臓を誰かに握りしめられているような感じがしていて、それは待ち合わせ場所に近づけば近づくほど強くなった。

 たぶん、緊張しているのだ。

 もうシビュラは俺が逃げたと思い込んで、いなくなってしまったかもしれない。

 そこにいたとしても、彼女が悲しむとしたらそれは俺が間違っていたことの証拠で、悲しまないとしたら絆を築けていなかったことの証左だ。

 ああ、憂鬱だ。

 どの結果を選んでも憂鬱で、なにが起こっても幸せな結果にはならない。なぜなら俺は今から、俺が不幸になるために、彼女を不幸にしに行くのだから。

 ただ、それでも俺はシビュラに会いに行きたいと、そう思ったのだ。

 あともう一ブロックもしたら初めて会ったあの交差点。その時は彼女の異様な容姿に驚いて、その美しさに言葉も出なかった。それから、彼女が未来視を披露して、俺は彼女の死に立ち会うことになった。ループがなくても俺とシビュラは出会っていた、と彩芽は言った。定められた運命で、それを変えることができるのは、きっとシビュラのようなオカルトだけなのだ。

 ゆっくり歩いてきたらずいぶん時間が経ってしまった。さすがにもういないかもしれない。そうだったらいっそせいせいするともいえる。やめてしまおうか。自分から言い出しておいてなんだけれど、いなかったことにして帰ってしまっても別に構わないのだ。それで、誰も困らない。会ってしまって、彩芽の言った未来が訪れたらどうする? やめてしまおうか。俺は曲がり角の前で、ついに足を止めてしまった。

 まだ迷っている。きっと、「しなければよかった」と後悔するのが怖いのだ。

 だって、〝あの時〟からの俺の三年間はずっと、やってしまった後悔でできていたのだから――

 その時、どん、と俺の胸にぶつかってくるモノがあった。

 一見すると真っ白な塊のような。

 色のない頭髪と透き通るような肌、そしてそれに合わせたような白いコート。眦から覗く真紅の瞳。

 彼女はあの時のようにアスファルトの上に転がってしまうことはなく、しっかりと背中に腕を回して、俺の胸に顔を埋める。

「……よかった…………もう会えないかと…………」

 呟きは再会の安堵に包まれて、少し鼻声にも聞こえた。今更彼女が誰かなんて言う必要もない。人間ではないがゆえに誰よりも人間らしい――シビュラだった。

 待ち合わせ場所はもう一ブロック先で、待ち合わせ時間はもうとっくに過ぎていた。それでも彼女は俺を待っていてくれて、待ちきれなくて、最後の一歩を踏みとどまっていた俺を迎えに来てくれた。そのことが俺はたまらなく嬉しくて、けれど暗澹たる未来を暗示していて、だから、俺はどっちつかずの声色で返事をするしかなかった。

「ああ。俺もシビュラに会えてよかったよ」

 そう返事をすると、彼女は背中に回した腕の力を強める。けれど俺は彼女を抱き返すことも透き通るような髪に撫でることもせず、やんわりと彼女を押し返して、ただ彼女との距離を広げた。

 もう、俺は間違えるわけにはいかない。答えの見えている問題を誤るのはただ自分に対して誠実でないだけだろう。

「もう来てくれないのかと思って、それで、私、本当はいけないとわかってたのに迎えに行こうとしていたの。そしたら慎がいてくれて……嬉しい」

「すまない。ちょっと迷っていたんだよ。なにをどう話せばいいか、整理がつかなくて」

「じゃ、じゃあなにかわかったの!?」

 喜んでいる相手をがっかりさせるのがわかっていながら話すなんて、まるで別れ話でもするようで、恋人なんていたことのない俺には荷が重い。それでも話すことには話さなければならない。だから少しでも口の滑りをよくするために、俺は親友をまねて、精一杯もったいぶった口ぶりで切り出した。

「シビュラ、いい知らせと悪い知らせどっちから聞きたい?」


 口火を切ったはいいものの、長くなるなら井戸端会議というのもなんなので、俺たちはしばらく歩きながら話すことにした。改まって視線をぶつけあって話すというのには気が重いというのもあった。それから、話が切れてしまったため、どう始めるかを悩んだ挙句、俺は結局シビュラの要望通り良い知らせから話し始めることにした。

「ひとまず事件は解決した。もうシビュラが殺されることはないはずだ」

 隣を歩くシビュラから驚きの声が上がる。

 無理もない。今まで俺と彼女が何度やってもできなかったことが、了一のアドバイスに従った途端解決したのだから。

「じゃあ、やっぱり、その慎の幼馴染が犯人だったの?」

 俺はうなずいて、「狙撃銃まで用意していた」と話せば、シビュラは「なるほど」と納得したような様子を見せる。前回の様子を聞くと、どうも俺がスタンガンで眠らせられた後そのまま狙撃されたらしい。

「なぜそうまでして私を?」

「了一の推理通り彩芽は未来から来たようだった。そして、彩芽が言うには将来タイムマシンをめぐって大きな戦争が起きるらしくて、その原因を作るのが俺なんだそうだ」

「え?」

「彼女のいた未来では、俺とシビュラが……その、恋に落ちて、その結果としてシビュラの秘密を俺が聞き出し、それが了一や緒方先生に伝わり、そしてタイムマシンにつながるんだと」

 恋に落ちて、というところを聞いて彼女は、まあ、なんて驚いたように顔を赤らめる。そういう反応をされると少し困る。しかし、俺は話を続けていくと彼女の顔はだんだんと険しくなっていく。

「つまり、俺がシビュラと一緒にいたから、彩芽はシビュラを殺していた」

 その結論に、彼女もたどり着いていたのだろう。俺がそう告げても彼女の表情は変わらなかった。

「ごめん、わかってたのに、わざと目をそらしていた気がする。そんなの俺が殺していたようなものだよな」

 本当は俺だって最初からわかっていた。だって、シビュラが殺されなかったのは俺とシビュラが一緒にいなかった時だけなんだ。簡単に考えれば一目瞭然なのに、どういうわけか俺たちはそうじゃない可能性を考えてぐるぐると道に迷っていた。

 しかし、俺が謝ると、彼女は首を振った。

「違うの。私だって、そうかもしれないって思っていたわ」

 彼女は歩みを止めて、俺の手を引いて、まるで一世一代の告白をするような必死の表情で、自分の気持ちを訴えた。

「でも、私が心細くて、あなたと一緒にいたかっただけ。実はそういう可能性も浮かんでいたけれど一緒にいたかったから、否定していたの。それどころかこうも思っていたわ。もしもこの事件が解決したら、もう私は慎と一緒にいられないんじゃないかって」

 歩き回って、俺たちが立ち止まったのはある大きめの公園の遊歩道の上だった。周りを歩く人は誰もおらず、俺とシビュラは二人、お互いに向き合った。彼女は俺を見上げて、飛び出す心臓を留めるように、胸に手を当てる。

「だから、慎。もし私がこれからも一緒にいてほしいって言ったら一緒にいてくれる……?」

 切なげな表情が俺の心を揺らす。

 けれど、今度は俺が首を振る番だった。

「悪い知らせっていうのはそのこと、なんだ」

 シビュラの身体が強張るのを感じながら、俺の手を引く彼女の手をそっと離す。

 ――シビュラ、もうこういうのは、ダメなんだ。

 できるだけ落ち着いた声を出そうとして、意外にもそんな声が出たことに驚きながら、俺はもう一つの知らせを彼女に言い聞かせた。

「彩芽は言ったよ。俺とシビュラが会わなければ、シビュラを殺す必要はないって。だから、事件を解決するためにはもう俺はシビュラとは会えない。会っちゃいけないんだ」

「そんな……」

「俺とシビュラが会わなくて、シビュラが研究室にさえ行かなければ、これで事件は解決だ。もうシビュラは殺されないで済む。最初から、俺たちの関係はそうだっただろ」

 シビュラが俺にしてきた相談は終わりで、だから俺たちの関係も終わり。

 それ以上の感情なんて最初からなかったことにしてしまって、たぶん、それがお互いにとって一番いいんだ。

 シビュラはなにか言いたげに視線を揺らす。しかしなにも言うことなく、口を噤んだ。それから、他人行儀な調子で俺に向けて深くお辞儀をする。

「……はい。ありがとうございました」

 彼女の透き通るような声を受けて、俺は踵を返す。

 実際のところ、俺の体感時間の中でも、彼女と会ったのはたったのひと月ほど前で、深い関係だとはとても言えない。

 彼女にとっても、永遠にも等しい時間の中でのちっぽけな出来事でしかないはずだ。

 そんな俺に彼女がかかずらっている意味なんてどこにもない。

 だから、間違いなく、これが正しい判断で、俺は間違ってなんか、ない……!

 握りしめた拳が、噛み締めた奥歯が、前へ進まない足が、俺を糾弾していた。俺が理性で押さえつけた自己が全身を使って抵抗する。

 間違っていたとしても自分のしたい方向に進むべきではないかと。

 正しさのために不幸を選ばされる生き方を生きていると言えるのかと。

 ああ、きっと、これを生きているとは言わない。

 彩芽も了一も緒方さんも、みんな自分の欲に忠実で、みんなそれぞれに自分の生を生きていた。でも俺は違う。どうやって死ぬか、どんな風なら生が終わっても構わないか、そんなことし考えていない。

 そんなのはただ、死に向かっているだけだ。

 死を告げられたあの時から、俺はずっと死に囚われている。死の恐怖に追い立てられて、周りを見る余裕がなくて、その結果、俺は彼女を傷つけた。彩芽だけじゃない、母親だってそうだ。俺がもっとみんなを見ていたら、そんなことは起きなかったはずだ。そう考えたら、もう受け入れるしかなかった。死に身を任せて自分を見ないことにした。だって、そうしないとまた俺は誰かを傷つける。俺の死が、俺以外にまで及んでしまう。

 それなのに、俺はまだ心の底では自分の生を生きたいと望んでいる。そんな思いは捨ててしまいたいのに、身体はそれを拒んでいた。諦めるなと。最後まであがいて必死で生きろと。生き汚く周囲を傷つけろと。

 そんなことをしてなんになる?

 そのどちらも選べないとしたら、俺はどうすればいい?

 俺は――

「そんなに、悩まないでください」

 そっと温もりが背中を包んで、まるで聖女のような柔らかな声音が耳朶を打つ。彼女は母親が子供に体温を分け与えるように俺の背中に身を寄せて、味方であることを示すように彼女の手のひらが優しく拳を撫でた。

「自分に苦しまないでください。自分を怒らないでください。自分で律しないでください。あなたが苦しめば、私も苦しいのです」

「シビュラ……」

 いつの間にかぎゅっとつむっていた目を開く。俺の足は笑ってしまうほど進んでいなくて、どれだけの間か、シビュラのそばでただ立ちすくんでいたようだった。

 シビュラの左腕がゆっくりと俺の身体を抱く。コートの上からではその体温をはっきりと感じることは難しかったけれど、彼女の手のひらが胸板の上に置かれているだけで不思議と安心することができた。

「慎、あなたの気持ちを、教えて」-

 その言葉で、俺はようやく胸の底から息をすることができて、強張っていた拳から力が抜ける。手の甲を包んでいた彼女の指が絡まって、俺はさらに彼女の存在を強く感じた。

 いつもの町の中なのに、どういうわけか彼女と俺だけの世界がそこにはあるような気がして、ふわふわとした気持ちの中で、俺は自分の言葉を吐露する。

「俺は……たぶん、居ても立っても居られないんだ」

 自分が生きるために生きて、そうしたときに起きることに焦りを感じてしまう。どうにも見ていられなくて、俺がどうにかしなければならないような気がしてしまう。

「ただ、俺が死ぬだけのことで、誰かが傷つくことが俺には耐えられないんだ」

 俺が死ぬなんてきっと本当は俺だけのことなのに、それに誰かを巻き込んでしまうことに居たたまれない。俺を必要としてくれる人がいればいるほど、俺はそのことに恐怖してしまう。

 それはきっとそう考えて、今の俺につなげたあの時の俺は間違っていたのかもしれないと、考えてしまうからだ。

 俺は自分の胸にあてられたシビュラの手を握りしめた。冬の外気に体温を奪われて冷たい指を自分の身体を預けた命綱のように大切に手にする。

「なあ、シビュラ。俺は、間違ってたのかな」

 間違っていたのかもしれない。馬鹿な中学生が混乱した頭で考えたことなんて、大体正解なわけがない。でも、俺はそれを信じたかった。それが俺にとって、この三年間の俺にとって生きるということだったからだ。

 彼女はきっと真摯に答えてくれるだろう。誠実に言葉を選んでくれるだろう。けれど、俺はなにを求めているのか。俺が求めることを、また誰かに強いようとしているのか。

 しばらくの静寂の後で、彼女が口を開く。でも俺はそれを聞くことを良しとしなかった。

「慎、私は――」

「ごめん。いいんだ。シビュラ」

 彼女の言葉を遮って、握っていた手を離す。また彼女と向き合って、顔を合わせるだけでもうシビュラには俺の気持ちが分かってしまったようだった。またさっきのような他人の顔になって、俺のわがままに付き合ってくれる。

「ごめんなさい。もうお別れは済ませたのに」

「いや、ありがとう。聞いてくれて、気が楽になったよ」

 一瞬だけ、彼女の瞳の奥にひどく切ない色がちらついて、けれど、それはあくまで一瞬だけ。閃きは見る間に消えて、残ったのはルビーのように鮮やかな赤色。

 シビュラは別れの言葉を告げる。

「さようなら」

「さよなら、シビュラ」

 最後の挨拶を交わして、俺たちは反対の方向へと歩き出す。もう交わることのないだろう道を別々に進んで、きっと彼女は俺とともにいるよりも幸せになる。

 俺は、そう信じるしかなかった。




 自宅の扉を開くと、彩芽が帰りを待っていた。

「おかえり、慎。お別れは済んだ?」

「ああ」

 そっけない返事でも彩芽はいたくご機嫌で、にこにこ微笑みながら玄関に立ち尽くす俺の手を取った。

「じゃあ、これからずっと一緒だね」

 弾んだ声で言ったその言葉に俺はうなずくことができなかった。例え彼女が俺の幼馴染の延長にいて、俺にどんなに願ったとしても、ずっとは一緒にいられない。それでも、俺は俺の正しさの上にきっと立っていて、だから、俺はあいまいに笑い返す。

 こうして、物語は終わる。

 俺が経験した円環と世界にまつわる一連の事件はひとまず幕引きを迎えた。

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